Posted on 05/23/2022 at 19:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『祝福を携えて』(イエス・キリストの生涯 その213) (2022.5.22)

彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる(イザヤ書66章24節) そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません(マルコ9章(44)、(46)、48節)

◆はじめに…今日、礼拝の後、福岡の知人のところへ行きます。というのは、その知人が鉢植えで種から育てた糸杉が2メートルを超えるまでに成長し、ふと私たちいとすぎ教会のことを思い出して、育った糸杉に最もふさわしい場所じゃないかと言うことで声を掛けて下さいました。それで今回、その糸杉を譲り受けるために出掛けることにしました。本物の糸杉のあるいとすぎ教会になります。

◆イザヤ書の結び…本主日でイザヤ書の学びは最後になります。最終章の66章からの学びになります。過去にイザヤ書66章の学びをしたことがありました。新会堂の起工式の翌主日2013年、9年前のことでした。『共に礼拝することを切望する私たちは、他人の不幸を喜ぶ者ではなく、不完全な者どうしが互いに和合して暮らす者(詩篇133篇1節、マルコ9章50節参照)です。そのための“教会”です。それも画一的なものでなく、多様な姿の教会(イザヤ66章20節参照)なのです。そんな教会のひとつとして、小さな“いとすぎ教会”がこの地に、主の許しのなかで存在しているのです。』と、そんなメッセージでした。今でもその思いはまったく揺らいではいないことを嬉しく思いますし、主に感謝します。

◆ゲヘナ(ヒノムの谷)の片隅で…今日のテキスト、イザヤ書の最終章の最終節66章24節をイエス様は引用しています。できれば聞きたくない、あるいは見たくない光景です。ゲヘナ(ヒノムの谷)は、エルサレムの南西に伸びる谷で、いわゆる“廃棄物処理場”でした。ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていました。また、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人を埋める場所でした。旧約聖書時代には、モレクの神への幼児犠牲が行われていました(②列王記23章10節「ヨシヤの宗教改革」参照)。1979年に、ヒンノムの谷の斜面の埋葬用洞くつで聖書本文が記された銀製の小さな巻き物2本が発見されました。その中には民数記 6章24-26節に記されている祝福のみことばが記されてありました。主は、私たちが目も耳も鼻も塞ぎたくなるような場所に近づき、呪いのことばではなく、祝福のことばをもって近づいて下さる方です。

◆結び…創造の主が私たちに祝福をもって近づいて下さっています。私たちも互いに祝福の祈りをもって互いに近づき、共に主の前に膝をかがめて礼拝する者として新しい一週間を過ごしていきたい、そう願っています。

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