Posted on 07/23/2023 at 06:20, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『罪の赦しー祝福の通路』(新約に引用されている旧約 その56)(2023.7.22)

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。詩篇32篇1節) /ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」(ローマ4章6-7節)

◆はじめに…先主日は恩師と会うため大牟田へ出かけ、大牟田フレンドシップ教会の礼拝に出席しました。執事さんによる教会学校のメッセージ、牧師のメッセージを聞き、それぞれのメッセージを通して聖霊様の感動を覚えました。みことばを聞くことの祝福は何にも代えがたいものがあります。私たちの弱さをよくご存じの主の憐れみに感謝します。

◆罪とは何か…私たちは、耳にタコができるくらい、「罪」「罪人」という言葉を聞いています。では、その罪とは何ですか? と問われたらどう答えるでしょうか。聖書(みことば)が問うているのは、数え上げることのできる複数形の罪、すなわち法律的な意味での「罪」ではなく、数え上げることのできない、本質的な罪、すなわち“原罪”です。創世記のアダムとエバのエデンの園でのエピソードで語られている罪です。つまり、神様を無視して神様から離れていること、神様から逃げ隠れていること、神様を神様として認めず、畏れない生き方、的外れな生き方です。別の言い方をすれば自己中心的な生き方です。自分は正しい、自分さえ良ければと、他を押しのけて、何よりもまず自分の欲望(願望)を実現しようとする生き方です。その罪の性質はすべての人が持っている性質です。

◆罪赦され、覆われて…実際に罪の性質ゆえに、過ちを犯したとき、私たちは、その痕跡を隠そうとします。あるいは自分の所在を隠そうとします。仮に一時的に隠すことに成功したとしても、胸は疼(うず)き、恐れ、不安が纏わりついて離れなくなります。そのことをダビデは詩篇32篇3-4節で回想しています。罪そのもの、罪ゆえに犯した過ちは、自分の力(行い)では解決不能です。別の道が必要なのです。罪あるまま、主の前に出る道です。私たちが向きを変えて主の元へ歩もうと決心したとき、主の方から一方的に罪のとがめを赦してくださることをダビデは体験しましたし、イエス様ご自身も「放蕩息子のたとえ話」を通して、父なる神の愛と赦しを語ってくださっています。

◆結び…罪人なる私たち一人ひとりの弱さ、そして胸の疼き、苦しさをご存じの主は、「あなたはどこにいるのか?」「わたしのところへ帰ってきなさい」と、御手を広げて招いておられます。幸い、祝福への通路は常に私たちの前に開いています。ありのままの私たちの姿で、ともに主の御許に近づきたいと願います。

You can follow any follow up comments to this entry through the RSS 2.0 feed.

Comments are closed.

アーカイブ ログイン お問い合わせ