Posted on 03/03/2024 at 19:48, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『復活がなければ』(新約に引用されている旧約 その79)(2024.3.3)

(…)「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と言っている(イザヤ22章13節) /もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです(①コリント15章32節)

◆はじめに…早めに就寝するように気がけているのですが、たいてい夜中1時くらいに目が覚めます。夢なのか自ら意識してなのか、いつの間にか頭の中が仕事のことでフル回転しているのです。起きて炭酸水を一口飲んで、意識を主に向けて祈り、再び床に就く毎日です。仕事と祈りの闘いです。しばらく格闘した後、愛する者に眠りと安息を与えてくださる主が勝利されます。祈り→安息・眠り→仕事(活動)、その流れの順序が大切です。快楽、放縦、刹那、羅針盤のない船の人生か、それとも喜び、自制、永遠、聖霊の導きの人生かの分水嶺になります。

◆明日(いつか)は死ぬのだから…コリント教会の信徒の中に、「死者の復活はない」(①コリント15章12節)と主張する者が多々あったようです。コリントはギリシャですからある意味、当然と言えるかも知れません。なぜならギリシャ人にとって霊肉二元論が常識であり、身体(肉)は朽ちるが“霊魂は不滅”と信じられていたからです。一方、イザヤが預言活動をしていた時代、イスラエルの民は、そもそも死後はすべて無に帰して神との関係も消失してしまうと考えていました(詩篇6篇5節他)。どちらにしても「死んだら身体を使って楽しみ満足を得られなくなってしまうのだから今、やりたいことをやって楽しもう」と。

◆ギルガメシュ叙事詩…今日のイザヤのテキストに引用されている「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」という古代のことわざは、『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれる世界最古の物語の一節から採られていると思われます。この中には「ノアの洪水」物語の原型といわれるものも含まれ、永遠の生命の探求の物語です。

◆死者の復活…コリント教会には死者の復活はないと主張する一派があり、「死者はどのようによみがえるのか?」と問います。その問いに対してパウロは、土に蒔かれた種が死に、その後、形を変えて生命に体を備えて成長させられるように、人の復活も同様で、肉体が死んで朽ち果てるも、主の御心のままに新なる生命が与えられ、身体(御霊のからだ)を与えられるのだと。イザヤも死者の復活を預言しています(イザヤ25章8節、26章19節)。

◆結び…復活はこの地上の人生にあってはあらゆる困難に対する“抵抗力”“回復力”“復元力”です。その復活の力を私たちに賜るために、イエス様は十字架に掛かられ、死を死なれ、復活され、罪を滅ぼし、死に勝利されたのです。

 

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