Posted on 03/10/2024 at 17:20, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『真のコルバン』(新約に引用されている旧約 その80)(2024.3.10)

(…)「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている」 (イザヤ29章13節) /「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠くはなれている」(マルコ7章6節)

◆はじめに…昨日、私の勤めている恵愛園に入所している方の“朗読ボランティア”に出かけてきました。朗読本は、Iさんからリクエストのあった『苦界浄土(くがいじょうど)-わが水俣病』(石牟礼道子著)。現在Iさんは目が不自由で自身で読書することが困難なため、いつか『苦界浄土』を誰かに読んでほしいと願っていたそうです。昨日、朗読を聞いてIさんが「嬉しいです。久しぶりに読書の喜びを感じました」とおっしゃいました。その感想を聞いて私自身も、心が少し近づいたように感じ嬉しく思いました。

◆心はわたしから遠く…今日のテキストの主題は「心はわたしから遠く離れている」です。主は、ご自身が愛し、創造し、選ばれた民の心が、主ご自身から遠く離れていることを深く悲しまれました。その口で祈り、賛美するも、主の御心に届かない空言(そらごと)になっていると。それは神様を脇に置いての礼拝です。イエス様は、このイザヤの預言を引用して、パリサイ人と律法学者に向けて語られました。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いている」と。偽善者とは役者という意味です。主に対して空言を語る者は、人に対して神のことばを空文(=無効、破棄)にすると、イエス様が語られます(マルコ7章13節)。

◆コルバン…その一例として「父母を敬え」との律法に対して「“わたしがあなたを扶養すべき分は、ぜんぶコルバン、すなわち神への供えものにする”と言うなら、その人は父または母に対する義務を果たさなくてもいい」(マルコ7章11-12節/本田訳)と。つまり「神を敬う」ほうが最優先なのだから「父母を敬う」のは後回しで構わないというような人の理屈(口伝律法)が、まかり通っているとイエス様は指摘しました。これは「洗わない手でパンを食べる」ことを詰問したパリサイ人に対する問いかけにもなっています。人の理屈で神のことばを反故にする者に対してイザヤは「あなたがたは、物をさかさに考えている」(イザヤ29章16節)と語っています。“コルバン”の原意は“近づける”です。修復不可能なまでに遠ざかり、距離が出来てしまった神と人、人と人を再び近づける、真のコルバンはイエス様です。

◆結び…真のコルバンなるイエス様は今日も「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改め(向き直し)て福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と語られます。

 

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

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