Posted on 10/05/2014 at 03:31, by matsumoto
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20章28節)
- はじめに…昨日10月4日がユダヤ暦で「大贖罪日」(ヨム・キプール)でした。この日、敬虔なユダヤ教徒は、24時間、断食をします。断食するのは基本的な欲求(あるいは野心)をコントロールして、悔い改め(立ち返り)の祈りに集中するためです。では断食祈祷して、ハイ、それで終わり、ということで良いのでしょうか? 「否」です。
- イエス・キリスト…イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださったのは、あの十字架の死という事実において表わされており、その意味は身代わりの贖いです(Ⅱコリント5:21)。これはすべての人に対して十分な力を持っております。そして、身代わりの贖いという事実を信じた人に与えられます(マタイ20章28節、ヨハネ6章37、39節)。
- 上から目線ではなく…とかく私たち人間は、高くなろうとします。高さを求めます。高身長、高学歴、高収入…。高いところから世界と人を見下ろそうとします。マタイ20章中段には、そんな人間の姿が記されています(マタイ20章20-21節)。
- 低みに身を置いて…しかし、そんな人間の姿を両方から挟み込むように、徹底して低みに身を置くようにと、主が弟子に、そして私たちに促しています。「最後の人にも、あなたと同じだけあげたい」(同14節)「仕える者になりなさい」(同26節)「しもべになりなさい」(同27節)。
- 仕える…主イエス様は、まったくそのような方としてこの世に来られ、この世で生き、そして十字架にお掛かりになられ尊い血を流されました。贖いとなられました。「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」というイザヤ58章8節のみことばが、そしてマタイ20章28節のみことばが、力を持って今を生きる私たちを包み込みます。ここに私たちの生きる希望の光が輝いています(Ⅰペテロ1章3節)。
- 結び…皆さんお一人ひとり、徹底して仕える者として生きられた主イエス様のみことばの力を受け、希望を持って生きることができるよう、祝福して祈ります。
《参照聖句》
■マタイ20章20-21節
そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
■マタイ20章14節
私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
■マタイ20章26-27節
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
■Ⅰペテロ1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
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