Archive for 1月, 2024

Posted on 01/27/2024 at 20:17, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『イエス様の切なる叫び』(新約に引用されている旧約 その74)(2024.1.28)

「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』」(イザヤ6章9節) /そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」(ルカ8章10節)

◆はじめに…14日の主日、午前は嬉野(うれしの)キリスト教会の礼拝に出席し、引き続き午後からの「新年コンサート」に参加しました。愛と喜びと平安に満ちた集いでした。みことばと証し、そして音楽(ゴスペルフォーク)を通して主の恵みがシャワーのように注がれ、集まった方々一人ひとりが主と結ばれて、活き活きとしている姿がとても印象的でした。

◆頑迷預言とたとえ話…さて、今日のテキストのイザヤ書6章9-10節は「頑迷預言(がんめいよげん)」と呼ばれます。その呼称の通り、心を迷わせ、頑なにする預言で、理解し難いみことばです。イエス様は、このイザヤの頑迷預言を、ご自身がたとえ話を話す理由として引用しています。頑迷預言と種蒔きのたとえ話に共通項があるからです。それは「自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないため」(イザヤ6章10節)とありますが、ヘブル語の意味するところは「さしあたって今のところは悟らないだろう、知ることはないだろう」ということです。つまり潜在的に能力はあるが、その開花をあえて避けているということになります。心を頑(かたく)なにして耳をふさいでみことばを聞かない状態です。だからたとえ話を語り続ける(種を蒔き続ける)のだと。

◆種と土(福音と心)の関係…イエス様は種蒔きのたとえ話で四種類の土地の状態について語っています。最初の三種類の土地は福音の種が育たない状態について語っています。それはイエス様がこの世のどうしようもない、それこそ“頑迷”な現実を、霊の目でしっかりと見つめておられ、知っておられるということです。しかしこの世にあって、忍耐し、福音の種が生え出て、実を結び幾百倍にもなる「良い地」があるという希望を、たとえ話の最後に語っています。ですから私たちは、ヤコブ書に「農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています」(ヤコブ5章7節)とのみことばもあるように、福音の種をイエス様から託された農夫として、恵みの雨(聖霊の注ぎと浸潤)を待ち望みます

◆結び…イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫んでおられます。あなたに寄り添い、天の御国に招かんとする切なる叫び声が聞こえるでしょうか?

 

〔毎日曜午前10時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

Posted on 01/07/2024 at 09:00, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『愛は辺境で芽生える』(新約に引用されている旧約 その73)(2024.1.7)

家を建てる者たちの捨てた(拒否、軽蔑された)石。それが礎の石(ローシュ・ピンナー=隅の頭)になった。(詩篇118篇22節) /あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった』(マルコ12章10節)

◆はじめに…新年、明けましておめでとうございます。皆さんにとって新しい年2024年が主の恵みとあわれみに満ちた年となるようお祈りします。昨年末、親しい友人知人と再会する機会が与えられ、元気な姿と良き証しを聞くことができ、感謝でした。また元日に久しぶりに映画を観にいきました。ディズニー100周年記念映画『ウィッシュ』。知人友人の証しと映画に共通していたことは、さまざまな困難、障害に遭っても希望を持ちつつ、その希望の実現に向け、自らの努力を惜しまなかった、ということです。

◆新年の主題…いとすぎ教会の2024年の年間主題は『朝ごとに新しい』(『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。』(哀歌3章22-23a節/新改訳))です。期せずして、2001年、私たちの最初の赴任地、壱岐教会の主題と同じになりました。2024年は年明けから地震や航空機事故、火災等、波乱の幕開けとなっていますが、“新しい”ご計画をお持ちの創造の主、恵みの主、あわれみの主に信頼して共に歩んで行きたいと願います。

◆礎の石(隅の頭)…ところでユダヤ暦の新年は“ローシュ・ハシャナー”(年の頭)と呼ばれ、「第7月の第一日(太陽暦で9-10月)」(レビ記23章24節)です。そして贖罪の日(10日)、仮庵の祭り(15日)と続き、罪の赦しと安息の月です。今日のテキストにある「礎の石」はヘブル語で“ローシュ・ピンナー”で、「隅の頭」です。直訳すると「家を建てる者たちの軽蔑(拒否)した石が、隅の頭になった」となります。聖霊の導きと信じますが、この詩篇118篇22節のテキストを通して「良きサマリヤ人のたとえ」を観てみると、「隅の頭になった=隣人となった」という構図がくっきりと見えてきます。強盗に襲われ瀕死の状態になっているにもかかわらず、宗教家から拒否されたユダヤ人と、正統的ユダヤ人から軽蔑され、ユダヤ人を拒否していたサマリヤ人が出会うことによって、まったく予期せず展開していった前代未聞のまったく新しい隣人となるストーリーです。それは中心から離れたところで展開される分離された関係が結び合わされる和解の物語です。

◆結び…私たちにイエス様は語りかけられます。「あなたの置かれている世界の片隅でこそ、愛が芽生える」と。

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