Archive for 7月, 2024

Posted on 07/31/2024 at 13:34, by matsumoto

『台所に神はおられる』(新約に引用されている旧約 その97)(2024.7.28)

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ(…)主の名を呼ぶ者はみな救われる(ヨエル2章28-32節) /神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ(…)主の名を呼ぶ者は、みな救われる/「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(使徒2章17-21節、ローマ10章13節)

◆はじめに…最近、ひしひしと物価高を実感しています。そのため少しでも安いスーパーを選んで買い物をしたり、ガソリンスタンドを捜して給油をしています。我が家の台所は「勘弁してください」と言いたいくらい、ひっ迫しています。皆さんも同様かと思います。そんな日々ですが、曲がりなりにも生活を営んでいること自体が主の恵み以外なにものでもありません。そんな中、思いがけず先週木曜日、同じ階に住む方から釣ったばかりのイカの差し入れがあり感謝でした。

◆いなごの災害…さてヨエル書1章には、前代未聞のいなごの大群がやって来て、畑の作物をことごとく食い荒らし、さらには牧場の青草も食い尽くし、羊の群れも滅びる光景が記されています。いなごの大群による自然災害の恐ろしさが描写されています。21世紀の現代も、いなごとは違いますが、日本を含め世界のいたろところで甚大な自然災害が毎日のように頻発しています。主が最初に準備して下さった麗しい「エデンの園」は見る影もありません。

◆主の台所(祭壇)…ヨエルは、いなごの自然災害は、主の宮(神殿)へのささげ物が出来なくなることにつながっていると預言します。主の恵みに対する喜びと感謝を主にささげられなくなるのです。つまり人々の日常生活における台所の貧困が、そのまま主の台所(祭壇)が貧しくなるということです。

◆主の祝福…翻って言うなら、主は、ご自身の台所事情(祭壇)の貧しさから、私たちの台所の貧困、失望、困惑、怒り、悲しみを自らのこととして御心を砕いて下さっている、そう言うことができます。主はご自分の地をねたむほど愛され、ご自分の民をあわれまれ(ヨエル2章18節)、「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」(ヨエル2章25節)とあります。主は、私たちの周囲の環境すべてを回復し、主の愛といつくしみを深く知る祝福で、私たちの全身全霊を満たすことを望んでおられるお方です(ヨエル2章12-14節参照)。ヨエル書は、私たちに何か偶像礼拝とかの罪があったから、罪の結果(罰、裁き)として、いなごの災害のような自然災害が起こったとは記していません。むしろ逆に、主ご自身に災害の全責任があることとして、私たちの苦しい台所事情を“償う”という御心で私たちに愛を示して下さっています。その主の愛を、主の霊を私たち一人ひとりに注ぎ、悟らせて下さっています。

◆結び…新しい一週間、主の御名を呼び、その呼びかけに応えて下さる主の愛を体験し、感謝と喜びのささげ物をささげる一日一日となるよう、祈ります。

Posted on 07/22/2024 at 08:42, by matsumoto

『誠実とあわれみの主』(新約に引用されている旧約 その96)(2024.7.21)

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6章6節) /『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章13節、12章7節)

 

◆はじめに…全国高校野球福岡大会で福大若葉高校がベスト4に進出。そして明日22日(月)、同系列の強豪、福大大濠高校との準決勝に。お互いリスペクトしあって、勝っても負けても選手一人ひとりの、そして私たちにとっても記憶に残るような試合になると、期待しています。

◆当事者性…その若葉高校の監督は「当事者性」「リスクを取れ」とインタビューで語っています。また「うちの野球は『ザ・筋書きのないドラマ』。シナリオはない」とも。監督と選手、そして選手間相互の信頼関係で、常識の枠を超える思いきったプレーが随所に見られました。観ていて爽快でした。

◆ホセア…ホセアの名の意味は“救い”。当時イスラエルは宗教的、道徳的、社会的腐敗がまん延していました。イスラエル王国崩壊の危機、将来の見通せない混沌とした世のただ中で、父ベエリ(ホセア1章1節)が子に名づけたのです。主は、このホセアに預言を託しました。その混沌としたイスラエルの社会の中にあって主はホセアに姦淫の女だったゴメルをめとるように言われました。ホセアは自身の結婚生活を通して、イスラエルの民を愛する主ご自身を、身をもって知っていきました。主はいけにえは好まず、誠実とあわれみに満ち満ちた方なのだと言うことを。

◆主のあわれみの実際…主は、ご自身を「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11章8節)「わたしは命に満ちた糸杉」(同14章9節/新共同訳)とおっしゃっています。イエス様は、このホセアの口を通して語られた主のあわれみがどのようなものなのかを、取税人マタイと食事を共にすることで(マタイ9章9-13節)、そして安息日に麦の穂を摘んで食べることで(同12章1-8節)、大胆に表されました。私たちそれぞれの日々の生活の場で主のあわれみと誠実を体験し、深く知り、学び、つながらせてくださるイエス様が私たちのうちに、そして傍らにおられ、導いて下さっています。

◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、私たちを決して見捨てず、誠実とあわれみをもって励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。

Posted on 07/14/2024 at 20:06, by matsumoto

『みことばの励まし』(新約に引用されている旧約 その95)(2024.7.14)

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。(ダニエル7章13節) /そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです(マルコ13章26節)

◆はじめに…映画『キングダム』の最新作の劇場公開日(7月12日)に合わせ、3週連続で前3作が「金曜ロードショー」で放映されていました。舞台は春秋戦国時代の中国。「戦国の七雄」と呼ばれる七大国(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が覇権を競う中、戦乱の世を終わらせるべく中華の統一を志す、嬴政(えいせい/後の秦始皇帝)と、その志に賛同する側近の活躍を描いた中華戦国大河ドラマ。いかに志や理想が高くても、いつの世も人間は争いを繰り返す他ないのでしょうか?

◆ダニエル…バビロン捕囚は中華戦国時代から遡ること約3百年。ここでも戦乱の世界が展開していました。ダニエルらは捕囚の地バビロンで、数多の苦難、迫害に遭いました。しかし「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」(ダニエル3章17節)「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださった」(同6章22節)と、主に信頼して屈することはありませんでした。

◆夢、幻を見る…ダニエルは、“獣”の夢と幻によって、バビロン帝国の他、様々な王国(と王たち)が次々に台頭して来ることを悟らされます。地上において力を奮う王国は、どんなに王が有能であったとしても、結局は罪人が自らの欲望を欲しいままにする“獣”の支配でしかあり得ないし、限りがあることを物語っています。その一方でその人間の王たちが支配する王国の幻の中で、まったく次元の異なる幻を見ました。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、その国は滅びることはない」(ダニエル7章13-14節他)と。ダニエルはこの幻があまりにも現実離れしていて、荘厳な故、その意味が分からず、悩み、脅え、顔色が変わるほどだったとあります。

◆みことばの励まし…ダニエルは血筋、知恵、知識において申し分がありませんでしたが、幻の意味が分からず、病にもなり(ダニエル8章27節)、力もうせてしまう(同10章8、9、17節他)こともありました。しかしその都度、主はダニエルを「神に愛されている者よ、恐れるな」という“みことば”によって力づけられました。苦難に耐える力は、時に適ったみことばによって与えられます。

◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、その都度、みことばと天使を遣わして、私たちを励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。

Posted on 07/07/2024 at 15:16, by matsumoto

『強くしてくださる主』(新約に引用されている旧約 その94)(2024.7.7)

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(エゼキエル37章27節) /神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(②コリント6章16節)

◆はじめに…孫が部活で野球をしていますが、毎回試合前には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4章13節) のみことばを祈って、そして試合に臨んでいると言っていました。ひと言のみことばが私たちの内に根付き、どれほど力づけ、立ち上がらせてくださるか、みことばの力を改めて知らされています。

◆エゼキエル…エゼキエルはバビロン捕囚期に活躍した預言者(兼祭司)です。捕囚5年目に「天が開け、神々しい幻=ビジョン、異象を見」(1章1節)、その後、主の御声を聞き、召命を受けました。「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り…」(2章2節)とありますから、御言葉=霊であることが分かります。幻と霊によってエゼキエルは立ち上がりました。エゼキエルの名の意味は“神が強くしてくださる”

◆息を吹き入れる…捕囚の中で、イスラエルの民は祖国を失い、自分自身を失い、茫然自失となり、希望を失っていたことでしょう。その中でエゼキエルは希望の預言を語りました。「新しい心を与え、新しい霊を授ける」「石の心を取り除き、肉の心を与える」(36章26節)「おまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(37章5、9、14節)。“枯れた骨”は捕囚と離散によって身体的精神的霊的に絶望し、“生きた屍(しかばね)”状態に陥っているイスラエルの民の象徴です。しかし、どんなに失望、絶望状態にあっても、主は、見捨てず見離さず、みことば(預言)と主の息、すなわち主の霊、聖霊を注がれ、再び希望に生きる者としてくださいます。イスラエルの民同様、私たちもその主の愛からもれることはありません。

◆新しい神殿の幻…エゼキエルは新しい神殿と新しい町のビジョンを語りました。主の栄光が満ち(44章4節)、「水が神殿の敷居の下から流れ」(47章1節)、「川のほとりの果樹は毎月、新しい実をつけ」(同12節)ました。生きとし生けるものが、いきいきと生きる町の名は『主はここにおられる=アドナイ・シャマ』(48章35節)。主がともにおられる時、私たちは最も私たちらしく、神の息子、娘として自由に、輝いて生きることが出来ます。

◆結び…この礼拝を通して、主の愛が一人ひとりに注がれ、主との親密さが更に深められ、神の子どもとして新しい一週間を生きられるよう、祈ります。

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