Posted on 09/07/2025 at 16:43, by matsumoto

『破壊してはならない』(ユダヤ人キリスト者と共に キ・テイツェ)(2025.9.7)

長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒し(=破壊し)てはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。(申命記20章19節)

◆はじめに…先週は夏休みを頂いて“森林浴”に出かけ、木漏れ日の下で、しばしリフレッシュの時を過ごさせていただきました。また、クマゼミとツクツクボウシの合唱が響いていて、記録的猛暑の夏の中にも秋の訪れを感じました。

◆破壊してはならない…今日のテキストは、イスラエルの民がカナンの地に入り、町々に対して包囲戦を挑む際に、「果樹を切り倒してはならない」という主の御言葉です。これは戦時においての原則ですから、あるラビはこれを広く解釈し、平時においても適用するよう勧めています。さらにマイモニデスは、不必要な破壊行為を広義に解釈して「これは木に適用されるだけでなく、器を壊したり、衣服を引き裂いたり、建物を破壊したり、水源を塞いだり、食物を破壊的に無駄にしたりする者も、バル・タシュチットの戒律に違反する」としました。

◆母鳥を去らせよ…また申命記には、ひな鳥を母鳥と一緒に連れて行くことを禁じる戒律もあります(申命記22章6-7節)。ナフマニデスは、これも種の保護に基づくものだと見ています。聖書は一部の動物を食用とすることを許していますが、絶滅させるまで捕獲してはいけないと告げています。総じて今風に言えば「SDGs(持続可能な開発目標)」ということになるでしょう。

◆すべて神の所有物…19世紀の賢人サムソン・ラファエル・ヒルシュは聖書の律法における環境保護に関する規定ついて「人類に示すのと同じ敬意を、あらゆる生き物、すべてのものを育み支える大地、そして動植物の世界に示さなければならない」という原則を表していると述べ、「彼らはあなた方に、すべての生き物を〝神の所有物〟とみなすように求めています。何一つ破壊してはならない。何一つ乱用してはならない。何一つ無駄にしてはならない。すべてのものを賢く用いなさい。…すべての生き物を被造物の家のしもべとみなしなさい。

◆イエス様のバル・タシュチットの精神…「不必要な破壊行為の禁止」は、神様が造られた世界と命を大切にするという原則に基づくものです。イエス様は、神の創造物だけでなく、特に社会の最も弱い立場の人々への配慮に焦点を当て、病人を癒し、貧しい人々に手を差し伸べました。これは、まさに神が与えた生命と尊厳を破壊から守る究極的な行為と言えるでしょう。そして人間の罪と破壊から世界を贖う、究極の愛を示すイエス様の十字架によって成し遂げられたのです。

◆結び…主は、私たちに「破壊」とは全く無縁の、毎月実を結ぶ命の木が茂る新天新地を備えておられ、そこへ入る通路(門)を啓いてくださっています。

Posted on 08/24/2025 at 20:29, by matsumoto

『御声を聞いて生きる』(ユダヤ人キリスト者と共に レーエ)(2025.8.24)

見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。(申命記11章26節)

◆はじめに…『人間の五感は、まず聴覚が生まれ、死んでいくとき最期まで残っているのも聴覚だと言われています。人間は世界を、まず聞きながら生まれる。そしてその名残りを耳にしながらこの世界から去っていくのです。聴覚が生まれたとき胎児は外界の音はほとんど聞こえない。聞こえるのは母親の心臓音、血流音、胃腸音、そして母親の声。それはどんな風に聞こえるのか。こもった低音で共鳴する振動のように聞こえる。ボーカロイドの音を水中で聞いてピッチが不安定になって揺らぎの音のように聞こえる』(『高橋源一郎の飛ぶ教室』より)。

◆「見る」は「聞く」こと…今日のテキストは、「見よ」で始まりますが、実は「聞く」ことがテーマです。そもそもユダヤ教は視覚ではなく音(聴覚)の宗教であり、見るのではなく聞く宗教であり、形象ではなく言葉を重視する宗教です。もちろんキリスト教も同様です。主は燃える柴の中からモーセに呼びかけました。『聞く』ことが最も重要なことだと誰よりも良く知っているモーセが、なぜ「見よ」と語っているのでしょうか。旧約聖書で視覚を表す動詞や比喩を用いている場合、実際には全く見られない何か、むしろ聞こえた何かを指していることが多いのです。イザヤが「見た」幻は、叫び声、音、言葉、宣言であり、光景や情景、象徴ではありません。またエレミヤも幻でアーモンドの木を「見て」いますが、重要なのは木を見た目ではなく、その名の音です。ヘブライ語でアーモンドの木を意味する「シャーケード」は「(主が)見守る」という意味です。

◆「祝福」と「のろい」…今日のテキストは「祝福」と「のろい」を見ること、すなわち聞くことを私たちに促しています。そして「ゲリジム山に祝福、エバル山にのろいを置く」(申命記11章29節)と語られています。民に「祝福」か「のろい」かの選び取りと、契約更新の儀式がゲリジム山とエバル山の谷間のシェケムで行なわれました(申命記27章参照)。レビ人の宣言と民のアーメンの声が谷間に響き渡り、母親の心臓音、血流音のように心に共鳴したのではないでしょうか?

◆ゲリジム山とエバル山の谷間で…そのシェケムは以前、アブラハムが召命を受け、礼拝を捧げた地(創世記12章1-7節)であり、後にイエス様が一人のサマリヤ人女性に、ご自身がキリストであることを啓示した地(ヨハネ4章4-42節)です。アブラハムもサマリヤ人女性も、主の御声を聞き、主との語らいによって全く新しいいのちを生き始めたのです。主の御声を聞くことで、私たちも日々、祝福された新しいいのちに生かされるのです。

◆結び…主の祝福の宣言と、決して渇くことのない生ける水を与えてくださるイエス様に委ねて新しい一週間を共に歩んで行けるよう祈ります。

Posted on 08/17/2025 at 20:34, by matsumoto

『目を留めておられる主』(ユダヤ人キリスト者と共に エケブ)(2025.8.17)

そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。(申命記11章12節)

◆はじめに…今年の8月15日で敗戦80年ということで、様々な企画がメディアで、そして全国各地で催されています。そのキーワードとして、戦争体験の継承、戦争の記憶、恒久平和、平和への誓い等が使われています。戦争体験者の手記やインタビュー、映像や写真が多く紹介され、自分事として戦争を考え、今後、どう行動していくのかについて、示唆を与えられます。しかし、今、この瞬間もガザやウクライナにおいて、多くの生命が失われていっていることに胸の奥に鉛を入れられているかのような重苦しさを感じます。だからこそ人間の限界を超える主(聖霊)の助け、満たしが必要と切実に思います。

◆ガザの惨状…今日のテキストは、ヨルダン川の西側の約束の地(カナン=現在のパレスティナ)に入るにあたり、モーセがイスラエルの新世代の民に、旧世代の荒野生活での反省も踏まえつつ、どのような社会生活を送ることが主のみこころに適ったものかを語り継ぐものです。ひと言で言えば「愛と正義」を土台にした生活と言えます。ところが、それからほぼ三千年を経た現在、イスラエルはガザ地区に空爆を続け、一般市民が巻き添えになり、飢餓で苦しんでいます。商品の価格は急騰し、100ドルで砂糖1キロ、食用油1リットルさえ買えない状態で、「希望の脆さと戦争の残酷さの間で宙吊りにされる」と悲痛な叫びが上がっています。この現状を、イスラエルに拠点を置く人権団体が、ジェノサイド行為で非難しています。

◆目を留めておられる主…この状況を、主は、放って置かれることはなさいません。今日のみことばにある通りです。絶えず目を留めておられます。そして主はかたよって愛することをせず、「在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」(申命記10章18節)方です。だからあなた方も「在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったから」(同19節)と、社会的に弱い立場にある人を自分事として愛するよう勧めておられます。レビ記19章18節で 「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と主は語られ、イエス様も同様のみことばを語られました(マルコ12章31節)。

◆結び…主は、片時も私たちから離れることなく、気遣い、目を留めていてくださり、みことばを語ってくださるお方です。ガザを始め、逆境の中にある人々が絶望することのないよう、具体的な食べ物と、いのちのみことばで希望に満たされるよう祈ります。

Posted on 08/10/2025 at 21:55, by matsumoto

『平和宣言』(ユダヤ人キリスト者と共に バ・エトハナン)(2025.8.10)

私は、そのとき、主に懇願して言った。(申命記3章23節)

◆はじめに…先週8月6日と9日、広島と長崎のそれぞれの被爆地で80回目の平和記念(祈念)式典が開催されました。鈴木史朗長崎市長は「1945年8月9日、このまちに原子爆弾が投下されました。あの日から80年を迎える今、こんな世界になってしまうと、誰が想像したでしょうか」と切り出し、「『武力には武力を』の争いを今すぐやめてください。(…)このままでは、核戦争に突き進んでしまう。そんな人類存亡の危機が、地球で暮らす私たちひとりひとりに、差し迫っているのです(…)ノー・モア・ヒロシマ! ノー・モア・ナガサキ! ノー・モア・ウォー!! ノー・モア・ヒバクシャ!」と、式典に参加した世界各国からの代表者に向けて叫ぶように訴えていました。私たちも“平和をつくる者”(マタイ5章9節)として日常生活の中で小さな一歩一歩を重ねていきたいと願わずにはおられません。

◆懇願するモーセ…今日のテキストの箇所でモーセは、主に“懇願”(バ・エトハナン)しています。モーセは主に何を願ったのでしょうか? それは「あなたもそこに入ることは出来ない」と主に言われたヨルダン川の西側の約束の地に入らせてくださいと懇願しました。この“懇願する”というヘブル語のゲマトリア(数価)が515であることから、あるラビは、それはモーセが神にその地に入ることを祈った回数に等しいと解釈しています。それほどまでにモーセは執拗に主に願ったのです。しかしその嘆願を聞いて主はモーセに「ノー・モア・スピーキング!」(もう話しかけないで!)と、祈りを止められました。

◆みこころに応答する…ここで大切なことは、私たちの願いを百パーセント主が叶えてくださり、自分の思い通り、願い通りに事が運ぶことではなく、主のみこころ(みことば)に応答することです。主に聞かれない祈りはありません。百パーセント祈りは聞かれます。だから私たちは主に祈り続けます。その祈りに対する主の答えが私たちの期待と違ったとしても、それが私たちにとって最善と信じて主に感謝するとき、私たちの内側から喜びが溢れて感謝の祈りに導かれ、主が身近におられることを体験し、日々の生活の中で神の国を体験します。きっとモーセは祈りを止められた後、主が語られた通りピスガの山頂に上り、ヨルダン川の西の約束の地を見下ろすと同時に、自身の内側には霊的な約束の地カナンを抱きつつ、ヨシュアをはじめとして次世代にみことばを継承しました。

◆結び…「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章5節)と、モーセは民に告げ、イエス様もこのみことばを取り上げ、神を愛し、隣人を愛することが、もっとも大切なみことばであると語られました(マルコ12章28-34節)。これが究極の平和宣言でしょう。

Posted on 08/03/2025 at 20:27, by matsumoto

『モーセの遺言と神殿崩壊-過去の悲劇を繰り返さないために』(ユダヤ人キリスト者と共に ドゥバリーム)(2025.8.3)

これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。(申命記1章1節)

◆はじめに…昨日は、母の米寿のお祝いの食事会をしました。母の希望で食前に米寿の祝福のお祈りをした後、鯛の尾頭付きの刺身をメインに、眞津代牧師の手作り海苔巻きに鶏肉のワイン蒸し、寒天ソーメン、茶碗蒸し、ケーキにフルーツポンチと、バラエティに富んだメニューで、家族でお祝いの楽しいひと時でした。そして食後に「人生の海の嵐に」「故郷」を一緒に歌いました。食事とともに、母の今まで歩んで来た人生の道のりの振り返り等、話にも花が咲き、お腹も心も満たされ有意義な時となり、主に感謝しました。

◆荒野の振り返り…今日のテキストの箇所は、モーセがイスラエルの民を前にして、これから約束の地に入るにあたって、荒野の40年の、主と民の歩みの振り返りを語るところです。この時、モーセの語りを聞いているのは、荒野の40年の歩みの出来事をほとんど知らない、新しい世代の民です。その民に向けて、モーセはある意味、遺言のように、体験したことや、約束の地で生きるために必要な主の教えを語り伝えました。

◆ティシャベ・アブ(神殿崩壊日)…今年は8月2日(土)の安息日の日没から本日3日(日)の日没は、ユダヤ人にとってはティシャベ・アブ(神殿崩壊日)を覚える記念日です。伝承によれば、紀元前586年のこの日にバビロニア人によってエルサレムの神殿が破壊され、その後建てられた第二神殿も紀元70年のこの日にローマ人によって破壊されたとされます。いわばユダヤ民族の敗戦記念日といってもいいでしょう。この日に合わせてシナゴーグでは今日の申命記の箇所とともに、イザヤ書1章が朗読されます。それは、この悲劇の根本を振り返り、繰り返さないように学ぶためだと言えます。悲劇は、人々が正直に行動しなかったことによるものでした。人々は利益を最大化することばかりに気を取られ、他者が苦しむことには無関心でした。政治家たちはその地位と影響力を私利私欲のために利用していました。

◆教えと預言の成就…モーセが新しい世代に伝えた教えは、ユダヤ民族の悲劇を経て、イエス様によって完成され、すべての人が神と隣人を愛して生きるための具体的な道として示されました。「仕える者になりなさい」(マルコ10章43節)「他人の利益を心がけなさい」(①コリント10章24節)

◆結び…イエス様が人生の嵐を防ぎ、真の故郷に私たちを導いて下さっています。

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