Posted on 08/03/2025 at 20:27, by matsumoto

『モーセの遺言と神殿崩壊-過去の悲劇を繰り返さないために』(ユダヤ人キリスト者と共に ドゥバリーム)(2025.8.3)

これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。(申命記1章1節)

◆はじめに…昨日は、母の米寿のお祝いの食事会をしました。母の希望で食前に米寿の祝福のお祈りをした後、鯛の尾頭付きの刺身をメインに、眞津代牧師の手作り海苔巻きに鶏肉のワイン蒸し、寒天ソーメン、茶碗蒸し、ケーキにフルーツポンチと、バラエティに富んだメニューで、家族でお祝いの楽しいひと時でした。そして食後に「人生の海の嵐に」「故郷」を一緒に歌いました。食事とともに、母の今まで歩んで来た人生の道のりの振り返り等、話にも花が咲き、お腹も心も満たされ有意義な時となり、主に感謝しました。

◆荒野の振り返り…今日のテキストの箇所は、モーセがイスラエルの民を前にして、これから約束の地に入るにあたって、荒野の40年の、主と民の歩みの振り返りを語るところです。この時、モーセの語りを聞いているのは、荒野の40年の歩みの出来事をほとんど知らない、新しい世代の民です。その民に向けて、モーセはある意味、遺言のように、体験したことや、約束の地で生きるために必要な主の教えを語り伝えました。

◆ティシャベ・アブ(神殿崩壊日)…今年は8月2日(土)の安息日の日没から本日3日(日)の日没は、ユダヤ人にとってはティシャベ・アブ(神殿崩壊日)を覚える記念日です。伝承によれば、紀元前586年のこの日にバビロニア人によってエルサレムの神殿が破壊され、その後建てられた第二神殿も紀元70年のこの日にローマ人によって破壊されたとされます。いわばユダヤ民族の敗戦記念日といってもいいでしょう。この日に合わせてシナゴーグでは今日の申命記の箇所とともに、イザヤ書1章が朗読されます。それは、この悲劇の根本を振り返り、繰り返さないように学ぶためだと言えます。悲劇は、人々が正直に行動しなかったことによるものでした。人々は利益を最大化することばかりに気を取られ、他者が苦しむことには無関心でした。政治家たちはその地位と影響力を私利私欲のために利用していました。

◆教えと預言の成就…モーセが新しい世代に伝えた教えは、ユダヤ民族の悲劇を経て、イエス様によって完成され、すべての人が神と隣人を愛して生きるための具体的な道として示されました。「仕える者になりなさい」(マルコ10章43節)「他人の利益を心がけなさい」(①コリント10章24節)

◆結び…イエス様が人生の嵐を防ぎ、真の故郷に私たちを導いて下さっています。

Posted on 07/27/2025 at 19:27, by matsumoto

『誓いを果たされる主』(ユダヤ人キリスト者と共に マトット)(2025.7.27)

人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。(民数記30章2節)

◆はじめに…SNSへの投稿しかり、昨今の政治家の発言しかり、自ら発する言葉に対する誠実さ、真実性に欠け、何かしら“言葉の重さ、厚み”が軽く薄っぺらになっているように感じます。ひいては、かけがえのない一人ひとりの大切な生命の尊厳が奪われていくような、のっぴきならない危機感を感じるのは、私だけではないと思います。

◆誓い…今日のテキストの箇所は、誓い(別の言葉で言えば「約束」)についてです。旧約時代、誓いは積極的に推奨されていました(申命記 6章13節、レビ記19章12節他参照)。偽りの誓いを立てることや、誓ったことを守らないことに対して厳しく戒められていました。ところが、当時のユダヤ社会における誓いの乱用がありました。些細なことにも誓いを立てたり、誓いの「抜け道」を探したりする風潮がありました。その具体例をイエス様が指摘しています。①神殿をさして誓う、②神殿の黄金をさして誓う、③祭壇をさして誓う、④祭壇の上の供え物をさして誓うことで、拘束力のある誓いと、誓いの無効性を区別していたのです(マタイ23章16-22節)。

◆しかり しかり、否 否…イエス様は、そんな姑息(こそく)なユダヤ人たちの思惑を見透かし、「いっその事、誓うな」(マタイ5章34節)と言われました。「『はい、はい、いいえ、いいえ』とだけ言えばそれで十分」(同37節)だと。「はい」と言うべき時は明確に「はい」と言い、「いいえ」と言うべき時は明確に「いいえ」と言うべきだと。言葉に責任を持ち、真実を語り、是々非々をはっきりさせ、軽々しい誓いを立てず、誠実な言葉を用いなさいと。誓いの精神(真実を語り、約束を果たすこと)を、イエス様は、普遍的かつ徹底的な形で「然り然り、否否」という言葉で表現されました

◆誓い(約束)を果たされる主…私たちも、自らの発言、主張を正当化したり、自らの考えや行為に隣人を取り込む手段として、みことばを付け加え、利用したりするようなことはないでしょうか? それは本末転倒で、みことばなるイエス様が、私たちの言動を真実なるものとしてくださり、主ご自身が救いの約束を、恵みとして成就してくださることを信じます。「主は誓い、そしてみこころを変えない」(詩篇110篇4節、ヘブル7章21節)

◆結び…私たちにとって未来は不透明で予測不可能です。しかし主イエス様が、恵みによって、私たちの一人ひとりの将来と希望を啓いてくださいます

Posted on 07/20/2025 at 20:10, by matsumoto

『切実な声を聞いてくださる主』(ユダヤ人キリスト者と共に ピネハス)(2025.7.20)

男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」(民数記27章4節)

◆はじめに…各国の男女間の格差を測るために、世界経済フォーラム(WEF)がジェンダーギャップ(男女格差)指数という指標を、毎年発表しています。経済参加や機会、教育、健康、政治などの4つの分野における男女の平等度を評価したものです。ちなみに日本のジェンダーギャップ指数は、2024年の報告では、146カ国中118位となっています。依然として世界の中で日本の男女格差は極めて大きいことを数字が証明しています。

◆格差社会の中で…旧新約聖書の時代も父権制社会、男性中心主義の格差社会で、女性の置かれた社会的地位は極めて低かったと言わざるを得ません。しかし、そんな困難な状況にあっても屈することなく、したたかに、賢く生き抜き、社会の伝統や慣習を変えて来た女性たちの生き様を聖書は証ししています。

◆ツェロフハデの娘たち…今日の聖書のテキストは、トーラー(律法)の父から息子への相続の規定の改定をもたらしたツェロフハデの五人の娘たちの記事です。ツェロフハデは荒野で死に、相続権のある息子がありませんでした。当然、従来の律法には娘への相続の規定はありませんから、五人の娘たちが相続するものはありません。それが当時の現実であり常識でした。しかしそれはどうなの? おかしくない? と五人の娘たちは指導者と公衆の前で、「自分たちにも相続する権利があって然るべきです、所有地をください」と訴えたのです。

◆律法改定…その娘たちの要求をモーセは主の前に持っていくと主は「娘たちの言い分は正しい(…)相続地を渡せ」(民数記27章7節)とモーセに告げられました。60万分の5の、ほんの小さな女性たちの声が、主のみこころを動かし、律法改定を引き出したのです。主は、圧倒的な数の中に埋没してしまうような声に耳を傾けてくださる方です。

◆不正な裁判官とやもめのたとえ…イエス様も、不正な裁判官とやもめのたとえ話で、ひっきりなしに「裁判をして自分を救って」と訴えるやもめに根負けして裁判をするように心を動かされた裁判官のように、主は、夜となく昼となく求める者を放っておかれることはない方(ルカ18章1-8節参照)とおっしゃいました。誰にも相手にされないような者の切実な声を、主は必ず聞いてくださいます。

◆結び…今なお、私たちが生きている世界は、差別と偏見に満ちています。だからと言って諦めてしまうことはありません。生きづらさを率直に祈り、訴えるその声を、確かにイエス様は聞いてくださって、生きる道を啓いてくださいます。

Posted on 07/13/2025 at 20:42, by matsumoto

『神の揺るぎない祝福と人間の思惑』(ユダヤ人キリスト者と共に バラク)(2025.7.13)

神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」(民数記22章12節)

◆はじめに…映画『キングダム 大将軍の帰還』を「金曜ロードショー」で観ました。舞台は紀元前3世紀の春秋戦国時代の中国。「戦国の七雄」と呼ばれる七大国(斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・燕(えん)・韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう))が覇権を競う中、戦乱の世を終わらせるべく中華の統一を志す、嬴政(えいせい/後の秦始皇帝)と、その志に賛同する側近の活躍を描いた中華戦国大河ドラマ。しかし昔も今も武器による戦いで平和が訪れるかのように錯覚しているのではないでしょうか? 武器による平和は一時的です。真の平和は、預言者イザヤが告げるように、過去の戦いから勝つための戦略や戦術を習うことではなく、真の平和は、主のみことばに聞くことでしょう(イザヤ2章1-4節参照)

◆モアブの王バラク…バラク王は、遊牧の民イスラエルの人口の多さに恐れを抱いていました。到底、軍事力では敵わないと判断し、隣国のミデヤンの長老に相談の上、そのころ預言者(占い師)として名の知れ渡っていたバラムを招いてイスラエルを呪ってもらおうということに。早速バラムに使者を送り、モアブに来て欲しいことを伝えました。

◆預言者(占い師)バラム…呪いの依頼を受けたバラムが主に尋ねたところ、「いっしょに行ってはならない。のろってもいけない。その民(イスラエル)は祝福されている」(民数記22章12節)との主(神)の答えを受け、使者に帰るよう告げました。その報告を聞いたバラクはもう一度、位の高い使者を遣わし、厚遇することを伝えました。しかし今度もバラムは「主のことばにそむいて何もすることはできない」(同18節)と。ただ主のお告げを確かめるので一泊するよう提案。その夜、主(神)が来られ「ともに行け。わたしが告げることだけ行なえ」(同20節)と言われ、翌朝、一緒に出掛けることに。そしてその道中、ロバが人のことばを話すのを聞き、行く手に主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを目の当たりにしました。

◆祝福…そしてバラムはバラクのもとへ着き、イスラエルの宿営する様子の見える3カ所の小高い丘の上でイスラエルの民を祝福したのでした。イスラエルの民は、主が異邦の民に語られ、バラクとバラムの、のろいと祝福のせめぎ合いがあったことなど、何も知りませんでした。主が約束された祝福は永続します。「主のことばは、とこしえに変わることはありません」(①ペテロ1章25節)「祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12章14節)

◆結び…主イエス様の祝福を隣人と分かち合う歩みとなるよう祈ります。

Posted on 07/06/2025 at 21:31, by matsumoto

『人間の弱さと神の恵み』(ユダヤ人キリスト者と共に フカット)(2025.7.6)

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(民数記20章11節)

◆はじめに…昨年2024年の日本人の死亡数は160万5298人(政府統計)でした。その数は毎年増加傾向にあります。そんな中、今年も多くの有名人の方々の訃報が聞かれます。歌手のいしだあゆみさん(76歳)、プロ野球の長嶋茂雄さん(89歳)、脚本家のジェームス三木さん(91歳)等々。それぞれ各界で多くの功績を残し、今尚、生前の作品や生き様を通して人々に大きな影響を与えています。私たちも年を重ね、人生の日数を数える境涯に入って、残りの人生をどう有意義に、悔いのないように生きるのか、思い巡らすことが多くなって来たのでは、と思います。

◆感情に揺れる人間の姿とモーセの過ち…本日の主題であるモーセの不信仰は、人間の本質を映し出しています。神はモーセに「杖を取り、岩に命じよ」と明確に指示されました。しかし、モーセは神の言葉に背き、杖で岩を二度打ってしまいます。この不従順により、彼はアロンと共に約束の地に入ることを許されませんでした。なぜ、イスラエルの民を導いた偉大な指導者であるモーセが、このような過ちを犯したのでしょうか? その背景には、人間の感情の複雑さが横たわっています。聖書の記述から、この出来事の直前にモーセの姉ミリヤムが亡くなったことがわかります。愛する家族との死別は、私たちを深い悲しみと疲労に陥れ、正常な判断力を奪います。感情が乱れると、神の言葉ですら半分しか耳に入らず、意図せずして過ちを犯してしまうのです。私たちもまた、肉体を持つ死すべき存在として、同様の弱さを抱えています。人生には、たとえ努力しても到達できない目標や、志半ばで終わってしまう未来があることを認めざるを得ません。

◆青銅の蛇と十字架のキリスト…しかし、私たちの人生は、失敗や挫折で終わる無意味なものではありません。たとえ感情に振り回され、過ちを犯したとしても、主は人生の要所要所で私たちを用い、すべてを益としてくださる方です。モーセが岩を二度打つという過ちを犯した後も、神は彼に「青銅の蛇」を掲げるよう命じられました。「それを仰ぎ見れば、生きる」という言葉は、単なる治療を超えた、深い救いの予表でした。これは、まさに十字架のイエス・キリストによる救いの出来事を指し示しています。罪によって死すべき存在である私たちも、イエス・キリストの十字架を見上げることによって、永遠の命と救いを得ることができるのです。モーセの不信仰という人間の弱さが露呈した出来事の中に、神の揺るぎない愛と救いの計画が織り込まれていたことに、私たちは希望を見出します。

◆結び…新しい月の始まりに、私たちはイエス・キリストの救いの御業を、自身の生き様を通して世に表していけるよう、心から主に祈ります。

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