Archive for 6月, 2022

Posted on 06/26/2022 at 17:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『王にして祭司なるメルキゼデクとイエス様』(新約に引用されている旧約 その5)(2022.6.26)

さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。(創世記14章18節) / このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。(ヘブル人への手紙7章1節)

◆はじめに…来月7月から、娘が、礼拝堂で子ども向けの「英語リトミック」の教室を開く準備をしています。もともと音楽療法に関心があったこともあり、これから教室に通う子どもたちの心身の成長のサポートができれば主に喜ばれる素敵な場になるのではと願っています。

◆メルキゼデク…今日のテキストのテーマはメルキゼデクを通して啓示されるイエス様です。メルキゼデクは旧約には創世記14章18節詩篇110篇4節の2カ所、新約ではヘブル書5~7章にしか登場しません。聖書66巻から見ると川の中から砂金を掬うようなものです。名前の意味は「義なる王」です。その義なる王は祭司でもあったのです。王であり祭司であるメルキゼデクが、アブラハムをパンとぶどう酒を携えて祝福したという記事が今日のテキストです。ヘブル書はキリスト者になってある程度年数を経て、後輩の指導をする役割を期待されてもよいくらいであるにもかかわらず、信仰が成長しておらず、信仰を捨てたり、ユダヤ教に逆戻りする者を励ます目的で書かれた手紙です(ヘブル5章12節、6章5、6節、10章35節他)。その核になるメッセージは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12章2節)です。そのイエス様は「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」(ヘブル6章20節)となられた方なのだ、そう語りかけます。

◆レビ系祭司職に勝る…ユダヤ教の律法によればレビ族が祭司職を担当することになっています。しかしレビがまだアブラハムの腰の中にいた時(生まれていなかった時)、すでにメルキゼデクはアブラハムから十分の一を受け、祝福をしています。つまりメルキゼデクはレビに先立ち、レビに勝る祭司なのだと(ヘブル7章3-10節)。そして神の子なる主イエス様は、さらに勝る大祭司なのだ、そうヘブル書は語るのです。

◆結び…自らの血と肉を捧げられた贖い主、救い主、永遠の大祭司なるイエス様が、今日も、この瞬間も、執り成しの祈りをもって私たち一人ひとりを創造の父なる神様との霊的関係を結んでくださっていることを感謝します。

Posted on 06/19/2022 at 15:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『真の礼拝者となっていく旅路』(新約に引用されている旧約 その4) (2022.6.19)

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12章1節) / 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。(使徒の働き7章3節)

◆はじめに…昨日、眞津代牧師の出身教会(母教会)・博多教会で、名誉牧師だった川内研二牧師の告別式が執り行われました。その様子がYouTubeで配信されていましたが、三男の川内悟氏の奨励は川内牧師の人となり、イエス様の愛に活かされた姿が良く分かり、また、古参の信徒の弔辞でのユーモア溢れるエピソードが、参列者にぬくもりある慰めを与えて素晴らしい式でした。

◆わたしが示す地へ…川内牧師の死の間際、牧師婦人が一緒に歌ったのが川内牧師の愛唱聖歌『見ゆるところによらず』(聖歌539番)だったそうです。今日のテキストのアブラハムの信仰がテーマになっている聖歌です。創世記11、12章を見ると、アブラハムが主から「わたしが示す地へ行きなさい」との御声を聞いたのはカラン(ハラン)でした。しかしユダヤの議会で訴えられたステパノはその弁明で「カラン(ハラン)に住む以前まだメソポタミヤにいたとき」(使徒の働き7章2節)と、生まれ故郷のウルにいたとき、すでに「わたしが示す地へ行け」との御声を聞いていたのだ、そうステパノは語っています。つまり、私たちに御声を掛け、召し出される主は、“場所”に縛られるお方ではない、そうステパノは語っています。もっと突っ込んで言えば、神殿(聖なる所)に縛られるお方ではないし、教会に縛られるお方でもないのです。どこに行っても、主は私たちと共にいて下さる方、インマヌエルの主です。

霊的礼拝…ですから礼拝は日曜日に教会で捧げることだけではなくもっと多様です。イエス様は、サマリヤの女に「父を礼拝するのは、この山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでもない(…)霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4章21-24節)とおっしゃいました。またパウロは、霊的礼拝とはこの世と調子を合わせるのではなく“心の一新によって自分を変える”ことによって神のみこころを知ることだ(ローマ12章1-2節参照)と語っています。礼拝とはChance & Change、イエス様と出会い、真の礼拝者となっていく旅路です。三男・川内悟氏は「父はイエス様から愛とゆるしを与えられ、その愛とゆるしをもって私に接してくれた。そして最後には『やっぱりイエス様だよね』と言っていました」と。

◆結び…今週、それぞれの生活の様々な場面でイエス様の愛とゆるしに触れ、真の礼拝者への旅路を歩むお一人ひとりであるよう、主に願います。

Posted on 06/12/2022 at 16:13, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『エノクは神とともに歩んだ』(新約に引用されている旧約 その3) (2022.6.12)

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5章24節) / 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。(ヘブル人への手紙11章5節)

◆はじめに…昨日、眞津代牧師の出身教会(母教会)・博多教会の名誉牧師の川内牧師が天に召されました。私たちの恩師の李天秀牧師に続いての召天の知らせでした。私が神学生時代、一緒に早天祈祷会で賛美を捧げ、祈りを捧げさせて頂いた時のことを思いだします。また、9年前のいとすぎ教会の「献堂感謝礼拝」のメッセージをして頂きました。眞津代牧師は、博多教会の開拓当初からの関わりですから悲喜こもごも、いろいろな思いが泉のように溢れ出ています。私たち後輩牧師にとっては、牧会に示唆を与えて下さった先生でした。

◆いなくなった/移された…本主日はエノクについて記されてある箇所からの学びです。創世記5章には人類の始祖アダムの系図が記されていて、「生きて(…)死んだ」が繰り返され、歴史が紡がれていきます。ところがエノクの一生は「生きて(…)いなくなった」(創世記5章24節)とあり、その引用箇所のヘブル人への手紙11章5節には「死を見ることのないように移されました」と、死んで葬られることがなかったことを伝えています。エノクは死ぬことなく天に引き上げられた、そう旧約聖書も新約聖書も告げています。それはエノクが“神とともに歩んだ”からであり、“信仰によって神に喜ばれる生活を送っていた”からだと、聖書は語っています。そしてこれは、主の再臨のときの“携挙”の保証の出来事です。

◆エノクの生涯…エノクはあの箱舟を造ったノアの曽祖父、ひいおじいさんにあたります。そして65歳のとき、息子のメトシェラが誕生しました。メトシェラが生まれた後、三百年「神とともに歩んだ」(創世記5章22節)とあります。日本で言えばちょうど年金生活を始める年齢から神とともなる生活を始めるようになった、ということです。神とともに生きる生活を始めることに遅すぎるということはありません。しかもエノクの地上での一生は365年で、他の人たちに比べると短命です。つまり信仰生活の長さが信仰の優劣(深浅)を決めるのではないということです。今日この日、この瞬間、神とともに生きること、信仰の質が大切だということでしょう。

◆結び…エノクと同様、私たちも今日、この瞬間、主に喜ばれる歩み、主とともなる歩みができるなら幸いです。

Posted on 06/05/2022 at 17:11, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『安息の席』(新約に引用されている旧約 その2)(2022.6.5)

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記2章2節) /というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。(ヘブル人への手紙4章4節)

◆はじめに…本主日は「聖霊降臨日/ペンテコステ(五旬節/シャブオット)」です。過越の祭りから“50日目”という意味です。元来、小麦の収穫を祝う祭り(出エジプト34章22節)でした。また、この日は出エジプトの七週間後、モーセがシナイ山で創造の主と遭い、十戒を授与された日として覚えられています(出エジプト19章)。かつて壱岐の島に住んでいた時には、緑色から黄金色に色づいていく麦畑を眺めながら、収穫の喜びを“体感”していました。しかし今年はロシアのウクライナ侵略で収穫された麦が分かち合えない(輸出できない)事態になっていることを見て、聖霊を悲しませる事態になっているように感じます。主が創造のみわざを休まれ、喜びを分かち合ったのですから、プーチン氏は破壊の業を中止し、主の御前でこうべを垂れる決断が必要です。破壊と略奪ではなく、創造と分かち合いが、神の子として愛されている人間のなすべき奉仕です。

◆きょう、御声を聞く…先主日から、シリーズで約250回(約5年)の予定で、新約に引用されている旧約をテキストとしてみことばに耳を傾けています。本主日はその第2回目、創世記2章2節を引用しているヘブル書4章からみことばを学びます。私たちは主の安息に招かれています。平安に満たされて呼吸をする指定席が準備されています。インターネットで飛行機や新幹線の予約する際、空席状況を確認しますが、空席があるとホッとします。主は、私たちに霊的に安んじることのできる席を準備しておられます。その席を得る条件は、「きょう、御声を聞く」(ヘブル書4章7節)ことです。御声は「神のことば」(同12節)です。

◆両刃の剣…きょう必要な御声を、主は、私たち一人ひとりに語られます。その御声を、馬耳東風ではなく、信仰(主に対する百パーセントの信頼)を持って聴くことが大切です。神のことばと神に対する信頼は両輪であり、両刃です。頭の先から五臓六腑に深く切り込まれます。しかし私たちは、その力に圧倒され逃げ出したり、逆に軽んじ口答えしたり、あるいは信頼できずに他のものに頼ったりする弱い者です。その弱い私たちを収穫の束として懐に抱きかかえて創造主の前に置いてくださる方が大祭司イエス様です。

◆結び…私たちが最も落ち着く場所、主の御前に席を設けてくださり、今日生きるのに必要なみことばを語ってくださる主イエス様に感謝します。

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