Archive for 9月, 2022

Posted on 09/25/2022 at 16:26, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『出エジプトの途上』(新約に引用されている旧約 その18)(2022.9.25)

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節) /モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また、『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。(マルコ福音書7章10節)

◆はじめに連日、旧統一教会問題がメディアで取り上げられています。かつて十代の頃、名古屋の街角でアンケートを求められ、その後ビデオセミナーに誘われました。『原理講論』というビデオを見せられ、その後、コーヒーを飲みながらビデオの感想を聞かれ、質疑応答というものでした。結局、その内容に納得できず、ジ・エンドでした。

◆第五戒の大誤解…本日のテキストは、モーセの十戒のうちの第五戒「あなたの父と母を敬え」の戒めと、それを歪曲して大誤解しているパリサイ人と律法学者を戒められたイエス様の記事です。いわゆる形式的な“口伝律法”に対する実存としての“みことば”の優位性です。人はいとも簡単に神のみことばよりも、人の言葉を優先させてしまいます。そのことをイエス様は指摘されました(マルコ7章11-13節)

◆父と母を敬う両親が統一教会の信者で、経済的、精神的圧迫の末、脱会したある二世信者の方が次のように語っていました。「教会から出た後の世界は全然楽しくなかったです。教会以外のコミュニティがなかったので両親を含む全ての人間関係を失い、孤独に苦しむ日々でした」。ところで“敬う”を「Respect」と訳している聖書があります。尊重するという味ですが単語を分解すると「Re(振り返る)+ spect(見る)」となります。統一教会を脱会し、自らの足で人生の旅路を歩み始め、立ち止まっては過去(自らのルーツである父母)を振り返り見る。しかし過去も現在もそして将来の希望も見えない。イスラエルの民がエジプトによって関係を断絶されたように、宗教によって、あるいは国によって、あるいは自身の主義主張によって人間関係(親子関係、家族関係、コミュニティー)が切り裂かれているのが、現在、私たちの置かれた世界の状況です。

◆結び…しかし主は、安らぎの居場所を失った者を放っておかれるお方ではありません。人生の旅路に同伴してくださるお方です。そして確かに平安に満ちた地を与えて下さるお方です。そのために奴隷の状態から解放してくださったのです(出エジプト記20章2節)。その地は私たちが私たちらしく主と隣人とともに安んじて暮らせる地、エデンの園の回復した地、アダムの尊厳が復権した場です。私たちはすでにその途上にあります。

Posted on 09/18/2022 at 15:33, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『宝物のあなた』(新約に引用されている旧約 その17) (2022.9.18)

あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト19章6節) /しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロの手紙第一2章9節)

◆はじめに…先週、映画『百花』を観ました。シングルマザーで音楽教室を営む母・百合子(原田美枝子)が、ある日突然目の前からいなくなるという体験をした息子・泉(菅田将暉)。その心の溝を埋められないでいた二人。母の認知症が進行していく中で、忘れていた母との思い出の断片を想い起こし、母の愛に対する愛おしい感情が心の溝に流れ込んで来る、そんな映画でした。創造の主、贖いの主イエス様の愛に対する私たちの応答の過程に似ているのかも知れません。

◆神にとっての私たち…本日のテキストは、神様にとって、私たちはどんな存在なのかという人物紹介と、神様の愛に対する私たちの応答についての記事です。神様の目から見て、私たちは「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」(新改訳)だと、ペテロはその手紙に認(したた)めています。別の聖書の訳で見てみると「身内として選ばれた者 택하신 족속(族属、身内)」「왕같은 제사장들(王のような祭司長)」「royal priesthood(王室の祭司)」「とっておきの民(大切な、所重(소중한))となります。「わたしの宝」とも(出エジプト記19章5節)。神様は私たちを世界の基の置かれる前から選んだのです(エペソ1章4節)。神様にとって私たちは最大の関心事、最愛の者、“いち押し”の者なのです。暗やみの世の中にあっても、神様の「驚くべき光」の懐(ふところ)に私たちを招き入れて下さっているのです。それゆえ、私たちは素晴らしく、純粋で、色褪せない、「美しく輝く月明かり」のように闇を照らして生きられるのです。

◆私たちの応答…そのように神様から守られ、愛されている私たちは、自分の意思や努力や修養によってキリスト者となったのではありません。一方的な神様の恵みと憐れみ、愛によってキリスト者になった私たちは、神様に対しては、絶えずその前に(仲介なく直接)立って、賛美と感謝をもって仕える祭司です。人と世に対しては、自分自身を含めこれを支配(下から支え配慮)する王です。私たちの生活の目的は、快楽や成功のためでも安身立命でもなく、身をもってイエス様から受けている愛に対する応答をすることです。

◆結び…神を愛し、隣人を愛する一週間でありますよう、祈ります。

Posted on 09/11/2022 at 19:17, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神の愛の経済』(新約に引用されている旧約 その16)(2022.9.11)

しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。(出エジプト16章18節) /「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。(コリント人への手紙第二8章15節)

◆はじめに…9月10日は“中秋の名月”ということで、今日の真夜中に空を見上げてみましたが、あいにく雲がかかっていて満月を見ることはできませんでした。エルサレムはどうかと思い、ライブカメラを観てみましたが、残念ながら、こちらも曇り空のため満月は見ることはできませんでした。しかし雲の向こう側には確かに真ん丸のオレンジ色に輝くお月様が浮かんでいることは確かです。お隣の韓国では“秋夕(チュソク、추석)”で賑わっているのでしょう。中秋の名月の次の満月が来ると、いよいよ“仮庵の祭り”です。

◆マナ…本日のテキストは、出エジプト記は「マナ」について、そして②コリント人への手紙は旧約を引用して「献金」の取り扱いについてパウロが意見を述べる箇所です。私(たち)は、多く集める=欲張り、少なく(しか)集められなかった=貧困というように考えがちです。しかし、マナも主の賜物(贈り物)であり、そのマナを集めるための健康、能力、勤勉さも主からの賜物(タラント)です。私たちの周囲は、自分自身も含めて、すべて主の賜物で満ちているのです。そして自然と分かち合いの気持ちが湧き出るように創造されているのです。そして賜物を受ければ喜びが溢れるように創造されているのです。その現実を味わいなさいというのが、主が私たちに託された喜ばしい課題なのです。それは善悪の知識の木に躓いた人間に対する“一本の木”(柳=ぎょうりゅう)の出来事です。

◆いのちのパン…さらにその出来事は主イエス様へと引き継がれました(ヨハネ6章35節)。天からのまことのパンであるイエス様は、モーセを通して与えられたパン(マナ)を遥かに超える、決して飢えることのない、“いのちのパン”です。もちろん、お月見団子やソンピョン(松餅=송편)も美味しいでしょうけれども比較になりません。主イエス様は、いのちのパンとして、私たち罪人を死から解放するために一本の木、すなわち十字架に釘付けになられたのです。

◆結び…そしてその朽ちないいのちを与えるのは御霊です(ヨハネ6章63節)。ペンテコステの出来事のように、御霊が分かち合われるところに、まことの神の愛の経済(交流)があります。神の愛の経済には、好景気も不景気もなく、絶えず満ち足りた恵み、まことの秋夕(チュソク、추석)があります。

Posted on 09/04/2022 at 16:32, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『律法 (ルール)を超える神の愛』(新約に引用されている旧約 その15) (2022.9.4)

「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(出エジプト13章2節) /― それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。(ルカによる福音書2章23節)

◆はじめに…先週の木曜日に阿部寛主演の映画『異動辞令は音楽隊』を観てきました。ザ・昭和を思わせるような熱血鬼刑事成瀬(=阿部寛)が、部下の内部告発で刑事課から広報課の音楽隊に栄転⁉させられ、はじめは不本意な境遇でしかなかった音楽隊の隊員たちとの関わりの中で人間的に成熟していく、そんなストーリー。その中で印象的なセリフ“ルールを超える緊急事態というものがある”

◆初子の聖別…出エジプトの際、主は10の災いをエジプト全土に下しました。その第十番目の災いが“すべての初子の死”でした。その際、主は、かもいと門柱にほふった羊の血を塗ることで、エジプト人とイスラエル人を区別する目印としました。それによってイスラエル人の初子は死を免れました。つまりイスラエル人の初子は、主によっていのちを救われたのです。ですから「最初に生まれた初子はわたしのもの」(出エジプト記13章2節)と主は言われました。だから聖別してささげよ、そう主はイスラエルの民に告げられました。

◆幼子イエス様の聖別…律法に従って聖別する(ささげる)ため、ヨセフとマリヤは初子のイエス様をエルサレム神殿に連れて来ました(ルカ2章22節)。それ以後もイエス様を連れて過越の祭りには毎年エルサレムに出かけ (同41節)、イエス様が十二歳になられた年も都に上り、祭りの期間を過ごされました(同43節)

◆イエス様の最初のみことば…ユダヤ人共同体では十三歳で成人になるため、その前年までに必要な教育をします。十二歳は教育の仕上げ段階と言えます。ルカはここでイエス様の語ったみことばを、はじめて記しました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいる(わたしの父の仕事をする)ことを、ご存じなかったのですか」(同49節)。ヨセフとマリヤは、そのイエス様のことばの意味が分からなかった(同50節)。異質な者を排除したり、抑圧したりせず、あるがままを受け入れ、分け隔てなく永遠のいのちを与える御業、それが父の仕事であり、イエス様の仕事です。その働きは律法(ルール)に縛られることはありません。律法(ルール)を超える愛の緊急事態でからです。

◆結び…イエス様は、みことばを語られます。その意味が分からなくても、心に留め、イエス様の愛に生かされていることを感謝する霊性が開かれますように。

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