Posted on 10/12/2025 at 21:04, by matsumoto

『二つの山の物語』(ユダヤ人キリスト者と共に ベゾット ハブラハ)(2025.10.12)

モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。(申命記34章1節)

◆はじめに…「人生の山場」という出来事が、それぞれの人生においてあると思います。信仰者にとって人生の最大の山場(霊的な山の出来事)は、何と言っても信仰告白を公に言い表した時といえるのではないでしょうか?

◆山に登るということ…聖書において「山」は、神様との出会いの場、啓示の場、そして転換点の場です。モーセがネボ山に登ったとき、彼は約束の地を目にしながらも、そこに入ることは許されませんでした。しかしその頂で、彼は神様の栄光に包まれ、使命の完成を迎えました。一方、イエス様は弟子たちを連れて高い山に登り、そこで変容され、神様の声が響き渡ります。この二つの「山の物語」は、神様の救いの計画の連続性と完成を私たちに示しています。

◆律法の完成と新しい出エジプト…マタイ17章では、高い山(ヘルモン山)に登ったイエス様の変容の場面に、モーセとエリヤが現れます。モーセは律法の代表者、エリヤは預言者の代表者。イエス様はその両者を超えて、律法と預言の成就者として現れます。ルカ福音書では、彼らが「イエス様がエルサレムで遂げようとしている“出エジプト”(=ご最期)」について語っていたと記されています(ルカ9:31)。これは、イエス様の十字架と復活による人類救済の旅路です。モーセの出エジプトは、イエス様によって霊的に完成されるのです。

◆シェキナー(神の栄光)…今日のテキスト申命記34章では、モーセがネボ山の頂から約束の地を見渡します。そこは彼の使命の終着点であり、神様との最後の出会いの場でした。神様はモーセを自ら葬り、彼の死を神聖なものとされました。マタイ17章では、イエス様が山の上で栄光に包まれ、雲が弟子たちを覆い、天からの声が響きます。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。これはシナイ山での神様の顕現を思い起こさせる場面であり、イエス様ご自身が神様の臨在(シェキナー)そのものであることを示しています。

◆新しい導き手…モーセの死後、ヨシュア(=主は救い)が後継者として立てられます。彼はイスラエルを約束の地へ導く者です。一方、マタイ17章では、イエス(=主は救い)様は単なる後継者ではなく、神の子として、永遠の救いへと私たちを導くメシア(「モーセのような預言者」(申命記18:15)の成就者)です。この二つの山の物語は、イエス様を通して約束の地(新天新地/霊的エデンの園)への導きを啓示しています。

◆結び…主はモーセを通して律法を与え、イエス様を通してその成就を示してくださいました。私たちが日常生活における山の頂で主の栄光に触れ、主の声に耳を傾ける者となれますようイエス様の御名によって祈ります。

 

二つの山の詩 —「約束と栄光の頂にて」(生成AI/Copilotによる作成)

Ⅰ. ネボの風

風が吹く 

老いた預言者の頬を撫でる

彼の目は遠くを見つめる

約束の地、乳と蜜の流れる谷

だがその足は、そこに届かない

神は語る 

「ここまでだ、モーセよ」

律法の石を抱きしめた手は

今、静かに使命を終える

雲が降りて 

彼を包み

誰も知らぬ墓に

神は彼を葬る

Ⅱ. ヘルモンの光

若き弟子たちが登る 

主とともに高き山へ

そこに現れる二人の影

モーセとエリヤ、律法と預言

光が裂ける 

イエスの顔は太陽のように輝き

衣は雪よりも白くなる

天より声が響く

「これはわたしの愛する子、これに聞け」

弟子たちは伏す 

恐れと栄光の狭間で

だが主は触れ

「起きなさい、恐れることはない」

Ⅲ. 山を越えて

モーセは見た 

イエスは成した

律法の完成、預言の成就

新しい出エジプトの始まり

山はただの地形ではない 

それは魂の頂

神と出会い、使命を受け

そして、栄光に包まれる場所

私たちも登る 

人生の山場を越えて

主の声に耳を傾け

その光に照らされながら

 

 

Posted on 10/05/2025 at 17:24, by matsumoto

『魂の荒野を潤すいのちの川』(ユダヤ人キリスト者と共に ハアズィヌ)(2025.10.5)

私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32章2節)

◆はじめに…昨日は日中、秋雨が降り続きましたが、父の92歳の誕生日を祝うささやかな食事をしました。父の魂を御霊が潤す時となったのであれば感謝です。

◆仮庵の祭りと私たちの渇き…明日6日の日没からユダヤ暦で“スコット(仮庵の祭り)”となります。イスラエルの民が荒野を転々と旅し、その旅先で仮小屋に住まいながらの日々を思い起こし、主の保護と恵みを祝う祭りです。同時に「水への渇望」と「神の臨在への渇き」を象徴しています。仮庵の祭りの最終日には、祭司が水を汲み、祭壇に注ぐ儀式が行われていました。これは、主が雨を与え、命を保ってくださることへの感謝と祈りの象徴でした。その祭りの最終日、イエス様は立ち上がり、叫ばれました。イエス様は、私たちの心が渇いているとき、主はその乾いた地に雨を降らせるように、御言葉と御霊を注いでくださいます。

◆渇いている者は来なさい…「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37–38)。これは偶然の言葉ではありません。仮庵の祭りの水の儀式の最中に、イエス様は「真の水の源」としてご自身を示されたのです。祭壇に注がれる水ではなく、信じる者の内側から湧き出る「生ける水の川」が、真のいのちをもたらすと宣言されたのです。

◆神の言葉は雨のように降る…モーセはこう語りました。「私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる」(申命記32:2)。神の御言葉は、荒野のような人生に降る恵みの雨です。仮庵の祭りが思い起こさせる「荒野の旅路の渇き」に主は、御言葉と御霊をもって応えてくださいます。

◆仮庵の祭りの霊的意味を生きる…仮庵の祭りは、荒野の旅を思い出す時です。私たちも人生の荒野を歩む中で、心の渇きを感じる瞬間があります。孤独、失望、疲れ、空虚感…。それらは、主の水を求めるサインです。この主が気づかせて下さった、私たちの心の奥底にある “渇き”を認めることが大切です。イエス様は「来なさい」(ヨハネ7章37節)と叫ばれました。黙想を通して、祈りを通して、心を開いて主に近づくことが、「来なさい」というイエス様の招きへの応答です。そうすることで御言葉が心に染み込んで来ます。これが“霊的に飲む”こと“聖霊を受ける”ことです。すると「その腹から生ける水の川が流れ出る」(同38節)とイエス様は言われました。私たちが御霊を受けるとき、それは私たち自身を潤すだけでなく、隣人といのちを分かち合う“いのちの川”となります。

◆結び…主の御言葉は雨のように降り、御霊は泉のように湧き出します。その水は、私たちの魂の荒野を潤し、私たちを通していのちの川となって流れ出します。

Posted on 09/28/2025 at 15:51, by matsumoto

『私たちの故郷』(ユダヤ人キリスト者と共に ヴァエレック)(2025.9.28)

言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。(申命記31章2節)

◆はじめに…先週の23日(秋分の日)、秋の訪れを感じたくて「彼岸花の名所」を検索したところ、新見南吉記念館がヒットしたので出掛けて来ました。恥ずかしながら新見南吉については名前の他は知らなかったのですが、児童文学作家で、代表作『ごんぎつね』があり、小学校の国語の教科書にも掲載されています。また、数々の詩作もしており、『明日』という詩が目に止まりました。花園みたいにまつてゐる/祭みたいにまつてゐる/明日がみんなをまつてゐる/草の芽、あめ牛、てんと虫/明日はみんなをまつてゐる/明日はさなぎが蝶になる/明日はつぼみが花になる/明日は卵がひなになる/明日はみんなをまつてゐる/泉のやうにわいてゐる/らんぷのやうに点つてる。

◆613番目(結び)の戒律…今日のテキストは、トーラー(律法、モーセ五書)における最後のミツヴァ(戒律)で、申命記31章19節「自分のためにこの歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教えよ」という命令を含む箇所です。これは伝統的に「トーラーを書き写すこと」と解釈されています。仏教に「写経」がありますが「写経は、仏さまの「経」を一字一字「写」しとり、その正しい教えをしっかり受け止め、こころを整える行です。自ら写経をすることによって浄土の教えを知り、より心のこもったお念仏を称える助けとすること」(浄土宗総本山知恩院HPより抜粋)のために行うのに対して、モーセが自らの生涯を閉じる際に命じたトーラーの書き写しは、「『私の祖先はモーセからトーラーを受けた』と言うだけではなく、それを受け継ぎ、世代ごとに確認する歴史的な営み」、すなわち主とユダヤ民族との間の愛に基づく契約(約束)の永続的な更新の営みと言えます。

◆私たちの故郷…トーラーはユダヤ人にとって“持ち運び可能な故郷”と呼ばれています。私たち信仰者にとっての根源的かつ霊的な故郷は“エデンの園”でしょう。そこはまさに“パラダイス”です。律法の成就者(マタイ5章17節)なるイエス様は、地上生涯を十字架で終える際、七つの御言葉を語られ、その第二の御言葉は、「まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイス(=ヘブル語訳でエデンの園)にいます」(ルカ23章43節)でした。律法の言葉が、霊を宿し肉をまとった神の子なるイエス様が、私たちに近づいて来られ、私たちとともにおられるところ、そこが私たちにとっての故郷であり、パラダイスであり、エデンの園です。それは私たちが生きている“きょう”の瞬間です。

◆結び…きょう、私たちとともにおられるイエス様は、明日も、そしていつまでも私たちの帰りを待ち、ともにおられる方です(ヘブル13章8節参照)。

Posted on 09/21/2025 at 15:35, by matsumoto

『この身丸ごとで共に生きる』(ユダヤ人キリスト者と共に ニツァヴィム)(2025.9.21)

きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている(申命記29章10節)

◆はじめに…先週の金曜日、眞津代牧師が、知り合いのT牧師のお誘いで、日本に移住して来たメシアニック・ジューの方のお話を聞きに行ってきました。1894年に創設されたCPM(チョーズン・ピープル・ミニストリーズ)という宣教団体の日本支部が2022年に誕生し、3日間無料で宿泊できるゲストハウスを運営しながら、日本を訪れるイスラエル人(年間約6万人)への宣教を行なっており、さらに展開することがミッションだそうです。地の果てである日本で、ユダヤ人に福音の種が播かれ、イエス様の永遠のいのちが芽生えるよう、心から祈ります。

◆新年を前にして…ユダヤ暦において、明日22日(月)の日没から新年(ローシュハシャナー)、つまりお正月になります。その新年を迎える直前の安息日に朗読される聖書(トーラー)の箇所が、今日のテキストの申命記29章10節-30章20節になります。そしてそのトーラーに関連した預言書の箇所(ハフタラー)も朗読され、イザヤ61章10節-63章9節になります。それに加えてメシアニック・ジューの集会では新約の箇所(ブリット・ハダシャー)が朗読されます。ルカ4章16節-21節もそのひとつです。イエス様がイザヤ書61章を朗読した箇所です。「貧しい人に福音を伝えるために主が油を注がれ、わたしを遣わされた。捕われ人に赦免を、盲人の目が開かれることを、しいたげられている人を自由に、主の恵みの年を告げ知らせるために(…)きょう、聖書のみことばが実現した」と。

◆みな、主の前に立っている…きょう、この瞬間、私たち一人ひとり、自由な者として主の前に立っています。過去にどんな者であっても、現在、どんな者であっても、そして将来、どんな者であろうとも、ただ主の恵みを受けた赦された罪人として、主の前に、共に立っているのです。はじめにお話しましたメシアニック・ジューの方が、CPMのホームページ内のYouTubeでメッセージをしている動画があり、「福音(良き知らせ)は肉(身体)を通して表現されるもの」と語られていました。ヘブル語で肉は“בשר (バサール)”で、福音は“בשורה (ベソラー)”で、福音の中に肉(ベイト、シン、レーシュ)が含まれていることから、ことば(福音)が肉となった、つまり受肉した福音としてのイエス様を私たち一人ひとりが証しするよう使命を託されていると言うことです。

◆完全無欠でなく欠け、傷ある者として…その私たちは欠けと傷のある者です。そしてその私たちの作者は創造主です。その私たち一人ひとりを主は御許に呼び寄せ、そして喜んで遣わされる方です。

◆結び…イエス様から愛されているこの身丸ごとで共に生きよ、そう主は語られています。

Posted on 09/15/2025 at 06:32, by matsumoto

『ともに喜ぶ』(ユダヤ人キリスト者と共に キ・タボ)(2025.9.14)

あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。(申命記26章11節)

◆はじめに…毎日、職場への通勤時に黙想タイムを持っています。その日の一瞬一瞬が、主が創造して与えて下さる素晴らしい瞬間だと言うことを確認して後、出勤しています。身体的な疲れと精神的緊張感から起こるネガティブな感情を、主によって、毎日、御霊の実である喜びの感情に造り変えて頂いています。気持ちを整えて職場に行くと、仕事はハードですが、重症心身障害者の通所利用者との関わりを通して励まされ、今日も一日“良かった”と、創造の主に感謝して、その日を終えています。

◆喜びは幸福の10倍…申命記26章11節は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地に導いてくれたことへの記念です。神が与えて下さった祝福を喜び、レビ人や在留異国人と共に分かち合うことを奨励しています。ギリシャ人哲学者のアリストテレスは、幸福こそがすべての人間が目指す究極の善である(『ニコマコス倫理学』)と述べましたが、旧約聖書(主にトーラー)で幸福(アシュレイ)は、その中心的な価値ではありません。喜び(サメハ)という言葉は、幸福の約10倍、登場します。つまり、“喜び”がトーラー(特に申命記)の根本的なテーマの一つです。なぜ喜びが幸福よりも重要視されるのでしょうか?

◆個別ではなく共有…詩篇1篇1-3節に、トーラーに従って生きる人に与えられる、穏やかで祝福された幸福な人生が描写されています。木のように根を張り、過ぎ去る風や気まぐれに吹き飛ばされることはなく、豊かに実を結び、堅固に生き、繁栄する。しかし、幸福とは個人の心の状態です。他方、喜びは個人に関するものではなく、私たちの共有(共鳴)に関するものです。申命記12章6-7節、16章11節、そして26章11節にあるように、分かち合う喜びです。それは私たちが一人で経験するものではありません。そして喜びは、家族、同胞にとどまらず、社会的弱者、そして異国人にまで拡がり、共有されるものなのです。

◆喜びの効果…『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J・D・サリンジャーがかつて「幸福は固体であり、喜びは液体である」と言いました。喜びは社会的な感情であり、他者と一体になったときに感じる高揚感であり、孤独からの解放です。

◆イエス様と喜び…イエス様はたとえ話で、失った一匹の羊を見つけた時、失った銀貨を見つけた時に、見つけた人は、友だちや近所の人々と“いっしょに喜ぶ”でしょうと語られています(ルカ15章4-9節参照)。喜びは隣人と分かち合うことで波紋のように拡がって、天に届き、御使いたちも喜ばずにはいられなくなると。

◆結び…主は、私たちの喜びを共に喜ぶために私たちのすぐ傍らにおられます。

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