Posted on 06/02/2019 at 13:07, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『キリストの愛に包まれて』(イエス・キリストの生涯 その66)(2019.6.2)

(…)さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(…)(ルカによる福音書24章44-50節)

  • はじめに…私の友人に介護の勉強をしている方がいます。友人は聖書の「愛し合いなさい」という言葉に、いつも抵抗を感じていたそうです。そして「愛し合うことなんて自分にはできない」とも思っていた、ということでした。介護の学びをする中で「愛する」ということは、相手のいのちを認め、受け入れることだ、と分かったと語ってくれました。自分が好むと好まざるとに関わらず、一人ひとりにいのちの尊厳を認め合うお互いの中にあるもの、それこそが「愛」そして「共に生きる」ことなんですね。聖書全体を見ると、そこには私たちのいのちを守って下さる主の、そして共に生きて下さるお心が記されています。神は愛なり、それは神はいのち(霊的、肉的)なり、ということができるでしょう。
  • いのちを着せて下さる主…復活されたイエス様は、弟子たちにかねてより語っていた父なる神の約束を語られました。「もうひとりの助け主、その方(力)を着るまで都にとどまっていなさい」と言われたイエス様。“着る”と同じ言葉が創世記3章21節に記されています。ここは罪を犯したアダムとエバが、エデンの園から追放される場面です。その時、神は彼らに皮の衣を作り着せて下さいました。それは大切な動物(おそらく羊)をほふり、血を流すことにより、彼らのいのちを包み込まれた、ということです。これはイエス様の十字架の予表です。イエス様の十字架によって罪赦され、贖われた私たちに、さらに力である聖霊(愛のいのち)で包み込もうと約束されました。
  • すべてを包み込む方…介護や福祉を学ぶと「ソーシャル・インクルージョン」という言葉をよく耳にします。これは「包み込む社会」つまり「共に生きる」ということです。私が若い頃に勤めていた重症心身障害(児)者施設の理念は“MIT LEBEN” (ドイツ語で「共に生きる」)でした。すべての生きとし生ける者のいのちは三位一体の神から与えられたものです。ですから私たちは神と共に生き、隣り人と共に生きるのです。しかし人間には限界があります。そこで父なる神は私たちが共に生き、互いのいのちを尊重することができるように、神の力(聖霊)で包み込んで下さったのです。「ソーシャル・インクルージョン」は「ジーザス・インクルージョン」(キリストに包み込まれる愛)によって豊かで温かなものになります。
  • 結び…主は、キリストに包みこまれる人生を私たち一人ひとりと約束して下さっています。シャローム
Posted on 05/26/2019 at 17:20, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『愛をその身に纏(まと)い』(イエス・キリストの生涯 その65)(2019.5.27)

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。(…)(ルカによる福音書24章36-42節)

  • はじめに…先週の日曜日から月曜日にかけて一泊二日で、福岡から3人の方が来訪されました。日曜の夕食は一緒に“過越の食事”を体験しました。旧約の律法(伝統)に則りつつ最後の晩さんで過越の食事を弟子たちとともにし、ご自身が贖いの小羊であることを啓示されたイエス様を想い起す有意義な時でした。神様の愛が旧約から新約、そして今を生きる私たちにまで貫かれていることを再認識する機会でした。
  • 恐れ、動揺、疑い…復活のイエス様が弟子たちの集まっているところに立たれ、(新改訳にはありませんが口語訳・新共同訳には)弟子たちに「平安があるように」と、イエス様が声を掛けられたことが記されてあります(ルカ24章36節)。しかし弟子たちは、今までに経験したことのない出来事ゆえに皆、恐れ、動揺し疑いを持ちました。復活のイエス様を幽霊だと思ったようです。
  • 嬉し過ぎて…そこでイエス様は、ご自身が肉と骨を持っていることを見せ、そして「よく見て、触ってごらんなさい」と促されました。すると弟子たちは、死んだはずのイエス様が目の前に現われた、あまりの嬉しさで信じられなかったのです。歴史上初めてのことで、現実を受け止められず、感情に振り回されている弟子たちの姿があります。
  • 何か食べ物は…そこでイエス様は「何か食べ物がありますか」と弟子たちに言われ、手渡された焼いた魚を一切れ食べられたのです(同41-43節)。
  • 復活のからだ…復活されたイエス様は、①ことばを語られ、②触れることができ、③食事をされました。復活の主は、幽霊でもなく、弟子たちの錯覚や夢でもなく、しかも単なる肉体でもない、合理的な理性では理解できない存在です。
  • エターナル・ケア…超理性的な存在としてイエス様が顕現されたのは、イエス様が、私たちとの関係をいつまでも、どこまでも保ち続けてくださろうとする意志、みこころの表明でしょう。私たちがどんなに感情を取り乱しても、不適切で過ちを繰り返す者であっても、一人ひとりの存在をかけがえのない価値あるものとして霊的成長を助けてくださろうとする一貫した愛の現われです。不滅の愛です(マタイ18章12-14節)。
  • 結び…今日もイエス様が、私たちと食卓(日常)をともにされ、深く心を向け続け、大切に見守り、霊的成長を育んでくださっています。
Posted on 05/21/2019 at 08:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『絶望の中に寄り添われる主』(イエス・キリストの生涯 その64)(2019.5.20)

(…)話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(…)(ルカによる福音書24章13-35節)

  • はじめに…私の友人は三度、癌がいやされ、証しをいとすぎ教会のブログに掲載しました。友人と私は、主の「いやす」との約束のことばを握りしめ信頼して時を過ごし、主が共にいて下さることを体験したのです。エマオという村に逃げ帰ろうとするクレオパもまた、主イエス様を体験し霊の目が開かれ主の証人になりました。
  • クレオパ…エルサレム教会の初代リーダー、ヤコブの後に立ったのがクレオパです。彼はイエス様の弟子としていつも遠巻きにイエス様の言動を注視していたのでしょう。その彼はどんな気持ちでエルサレムを離れ、故郷に向かっていたのでしょうか?
  • 霊の目がさえぎられて…クレオパたちは目前の事件に驚きと恐怖を抱いていたと思われます。二人で話をしている中にイエス様が話しかけてもイエス様には気付きませんでした。私たちは何事もない時には「主よ感謝します」と言いますが、いったん事が起こると目の前の事にとらわれてイエス様を忘れ、そして自分の考えに振り回されてしまいます。
  • 目が開かれる…話しかけられた方がイエス様だと気づかない二人。ところがイエス様がパンを裂かれる様子を見て二人の目が開かれた、とルカは証ししています。五千人の給食の事、また共に食事をした事、その過去のイエス様との体験を走馬灯のように思い出し、目の前の方がイエス様だと分かったのです。その復活のイエス様のことを他の人に話しても誰も信じませんでした(マルコ16章13節)。それでもクレオパは復活されたイエス様が絶望の中にいる時、歩み寄って下さったこと、語って下さったことを語り、力強く人々を導いていったのです。
  • 共に歩まれるイエス様…辛い時、私たちは本当に神様はいるのか、いるならなぜ助けてくれないのか、と言います。これからどのように生きていったら良いのか分からない、そんな絶望の中にある私たちのただ中にイエス様は寄り添って、共に歩んで下さっています。そして私たちの目を開いて下さいます。
  • 結び…どんな困難な道でも、困難だからこそ、イエス様は共に歩んで下さいます。
Posted on 05/12/2019 at 20:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『十字架の死と復活と昇天』(イエス・キリストの生涯 その63)(2019.5.12)

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(…)「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒の働き1章3、7、8節)

  • はじめに…先週8日、滋賀県大津市で自動車が保育園児の列に突っ込み、二人の幼い命が奪われるという痛ましい事故が起こりました。今年2019年1月から3月までで736人(約8人/日)の方が、全国の交通事故で尊い命を落としています。私たちの知らないところで事故や病気によって突然、大切な人との別れを体験される方が毎日いることに、やるせない思いになります。もちろん奇跡的に九死に一生を得て再起される方もあり、それは嬉しいことです。
  • 弱さの現場で待つ…イエス様は十字架の苦しみと死を体験され復活し、使徒たちにご自身の姿を現され、声を掛けられました。その事実によって使徒たちは気力を失うことなく人生をあきらめることはありませんでした。イエス様のことばに従って十字架の現場であるエルサレムに留まり、天の父の約束を待ちました。「弱さの中で待ってごらんなさい」イエス様はそう語りかけられました。
  • 聖霊による力…弟子たちは、復活のイエス様と出会い、神の国のことを聞いても依然としてこの世的、政治的、ユダヤ教的イスラエルの再興のことを考えていました。この世のことに関しては好奇心・関心があり、天のことに関しては無関心でした。聖霊が臨んで、はじめて力を受け、霊的に新生し、霊的な視野が啓かれ、確信と信頼をもってイエス様の証人としての歩みが始まったのです。
  • ガリラヤの人たち…天のことに関して無関心だった弟子たちは、昇天されるイエス様を見上げ、そのうちに見えなくなって茫然自失の状態でした。それは気の抜けたただの田舎者の姿でした。しかしこの経験が、空の器に聖霊が注がれる備えとなったのです。私たちも御霊によらなければただの田舎者です。しかし、その田舎者をイエス様は尊く用いてくださるお方です。たとえ欠けた器だったとしても。
  • 結び…御霊を注ぎ、キリストの証人として私たち一人ひとりを尊く用いてくださる主に栄光がありますように。
Posted on 04/21/2019 at 20:43, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『復活―救いの真実』(イエス・キリストの生涯 その62)(2019.4.21)

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ福音書20章27節)

  • はじめに…先週、日帰りで埼玉県の大宮市に行きました。というのは「もう車に乗らないから、誰か要らないかしら」と言う方があり、その方(Mさん)の車を譲り受けるためでした。年式、走行距離、色は違うけれどもまったく今、私たちが乗っているのとまったく同じ形の車でした。不思議なことです。
  • 信仰の証し…Mさんのご自宅へ伺い、車の譲渡に必要な書類の確認後、昼食をしながら、Mさんとその方のお父さんの信仰の証しを聞き、深く感銘を受け、恵みに満たされて帰途に就きました。Mさんのお父さんの遺した『主のために』と題された日記は605冊。天に召されるほぼ一週間前まで記されていました。Mさんはその日記を前にしながらお父さんの一つのエピソードを教えてくれました。戦争で米軍の捕虜になり、尋問を受けた際、聖書を持っていたことから「おまえはクリスチャンか?」と米兵から尋ねられ「そうだ」と答え、死刑を免れたと言うことでした。そんな体験があった故でしょう。天に召される直前に発したことばは「ギデオンの聖書100冊、注文してくれ」だったそうです。一冊の聖書の持つ救いの力を、身を以って体験し、確信し、信頼して生涯証しし続けたその父の生き様を通して、Mさんは「今、ようやく神様のことが分かるようになったばかりの幼稚園生です」と心境を話してくれました。
  • 信仰告白…さて、今日のテキストは、私がキリスト者になるきっかけになった聖句です。このときは、人生のどん底でした。ちょうどバブル経済が崩壊し始めのときでした。曲がりなりにも小さな工場を経営していたのですが、借金がかさみ、自転車操業でした。そんな中、聖書のことばの一節一節だけが日々の生活の支えでした。とはいうものの、最後の一線をどうしても越えることが出来ずにいたのです。言わずもがな、キリストの“復活”です。自分の納得がいく範囲内の科学的、合理的思考の枠を越えられずにいたのです。しかし、自分ではどうにもならなくなった状況の中、意識の転換(回心)が起こったのです。こちら側からアプローチしてみことば(復活)を理解し解釈するということから、向こう側から人格を伴ったみことば(復活の主)がやって来たのです。そして文字ではなく声として「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と語りかけられたのです。
  • 結び…使徒、パウロをはじめ、復活の主に触れた人々が臆せず大胆に復活のイエス様を証し続けたが故に、今、私たちが、どんなに逆境の中にあったとしても、主にあって生き続けることができることは掛け替えのない救いの真実です。
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