Archive for 5月, 2016
Posted on 05/29/2016 at 05:04, by matsumoto
また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。(出エジプト記25章31節)
- はじめに…先週27日、オバマ米大統領が、サミット後、広島を訪問し、慰霊碑に献花し所感を述べました。その後、被爆者の方と握手を交わし、ハグする感動的な場面がありました。「広島へ来て、目で見て、感じてほしい」という被爆者の切なる願いが、原爆投下から71年の歳月を経て実現しました。“核なき世界”へ向けての第一歩。
- 幕屋建設…握手とハグに象徴されるように、人と人が歩み寄り、親しく交わるのは、麗しい姿です。同様に、主(神)と人が親密に交わることが出来るなら、それに勝る喜び、安らぎは他にはないでしょう。そのために主は、幕屋の建設をモーセに指示されました(出エジプト25-27章参照)。その幕屋の器具のひとつに、純金の燭台があります。いわゆるメノラーです。その主たる目的は聖所、至聖所で大祭司が奉仕するための明かりを灯すことですが、材料、制作方法、形に秘められている霊的な意味を分かち合います。
- 純金…燭台の材料は“純金”です。その重さは約34㌔グラム。参考までに現在の金相場で計算すると約1億6千万円。純金ですから、混じり気のまったく無い金です。熱い炉の中で精錬され、不純物が取り除かれます。
- アーモンド…燭台のデザインはアーモンド(あめんどう)です。早春に他に先がけて花を咲かすことから復活を意味します。また、原語では「見張るもの」「目覚めるもの」「寝ずの番をするもの」という意味があります。
- 槌で打つ…燭台は打ち叩いて作るよう、指示されています。六つの枝が、ひとつの台座、支柱につながって一体となっています。そのために火のような試練を通され、打ち叩かれる苦痛を経験します。その結果、真っ暗な聖所と至聖所に光を灯す、聖なる道具として用いられるのです。それはイエス様の生き様であり、私たち自身の生き様です。
- 結び…試練と苦痛の証しを通して、暗闇に光を放ち、主と親密に交わる皆さんとなられるよう、祝福して祈ります。
Posted on 05/22/2016 at 02:44, by matsumoto
写真=可児市バラ園(花フェスタ記念公園ホームページより)
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3章19節)
- はじめに…先週18(水)から20(金)の3日間、当教会をメイン会場にして『霊性牧会クリニック』を開催しました。参加された皆さん、それぞれ主から恵みを受けて帰路につかれました。今回、初の取り組みとして、岐阜県可児市にあるバラ園へ出かけ、美しく咲いた数万本の色とりどりの神様が創造されたバラを観賞した後、茶室『織部庵』で抹茶を頂き、その後、セミナーをしました。ウグイスの声、水の音、さわやかな風の中で聞く御言葉は、心の中に染み入るようでした。
- 神の子どものイメージ…今回のセミナーの主要テーマは、「神の子どもとしてのイメージ(意識)を持つことの大切さ」でした。崩れたイメージを持つと行動も崩れたものになります。神の子どものイメージを創るために神様は、いのちの木と善悪の知識の木を創られました。本能的イメージは(自分にとって都合の)善いもの(あるいは場所)を求めます。しかし主は、いのちの木の実を食べることを求められます。「善悪の実を食べると死ぬ」ということが神様の御言葉です。“死ぬ”というのは自意識が強くなって、神様との私たちとの関係が切れる、すなわち死ぬことになるのです。聖霊の臨在が有るか無いか、これが重大問題です。
- 内なる至聖所…至聖所(聖霊の臨在される場所)から出て来る御言葉に、たましい(知・情・意)が反応して、身体を通して現れるのが、霊的原則です。霊(内)と身体(外)は結ばれています。見えない根(父なる神)に幹がつながり、幹(イエス様)に枝がつながり、枝(私たち)に果が実り、花が咲きます。御言葉と祈りによって、内なる至聖所に聖霊の臨在が満ちてきます。神様が喜ばれる祈りが聖霊の祈り、すなわち異言の祈りです。
- 結び…私たちの内なる至聖所に聖霊様が臨在され、歩みを共にしてくださっています。祈りと御言葉によって、ますます私たちの内側をイエス様の愛で満たしてくださり、外側に輝き出してくださいます。皆さんお一人ひとり、イエス様の愛を思い、感じ、行動される一週間となることを信じ、祝福をお祈りします。
Posted on 05/15/2016 at 07:55, by matsumoto
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒の働き2章46-47節)
- はじめに…先週、『激動の20世紀を生きた三人のクリスチャン』というDVDを観ました。その三人は杉原千畝、清水安三、田内千鶴子。
- 韓国孤児三千人の母…田内千鶴子は、日本統治時代の韓国で孤児たちの養護施設「木浦共生園」を夫(ユン チホ)とともに立ち上げ、三千名余りの孤児たちを育て、“韓国孤児三千人の母”と呼ばれたクリスチャンです。二人の結婚は、皆が反対する中、千鶴子の母・春だけが「結婚は国と国がするものではない。人と人がするもの。神の国には韓国人も日本人もない。全て神の子どもだ」と言って励ましたそうです。
- わたしの霊をすべての人に注ぐ…ペンテコステの日、ユダヤ人たちは、弟子たちが異言で話すのを聞いて「ガリラヤの人じゃないか」「甘いぶどう酒に酔っている」(使徒の働き2章7、13節)とあざけりました。そこでペテロが立ち上がり宣教を始めました。ヨエル書を引用して『(…)わたしの霊をすべての人に注ぐ。(…)息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(…)主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒の働き2章17-21節)
- ペンテコステ…旧約時代、主が、選ばれた個人(預言者、王)にのみ霊が注がれ、その後、神殿に注がれました。しかし、何れも仮の住まいですから永遠に住まうことが出来ません。そこで父なる神は、聖なる宮としての御子をこの世に遣わされ、聖霊は、御子の上に鳩のように降られたのです。そしてついに主の十字架、復活、昇天を通して、ヨエルの預言の成就として、何の区別もなく老若男女、身分も国籍も区別なく、注がれるようになったのです。主の血によって聖霊の通路が開かれたのです。そして日々、救いの御業が今日も続いているのです。
- 結び…聖霊の注ぎと内住によって、証しを立て、分かち合い、共に生きる神の子となるよう、祝福して祈ります。
Posted on 05/08/2016 at 19:10, by matsumoto
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。(使徒の働き2章7節)
- はじめに…先週5日、可児市にある「バラ園」に出かけてきました。ほとんどのバラは、まだ蕾(つぼみ)でした。その広大な「バラ園」の一角に日本庭園があり、そこに茶室「織部庵(おりべあん)」があります。一度そこでお茶を一服いただきたいとのかねてからの念願叶い、至福のひと時を過ごすことができました。
- 躙り口…「織部」というのは、戦国武将で茶人の古田織部のことで、利休七哲の一人です(キリシタンであったという説もあります)。七哲には、キリシタン大名の高山右近、細川ガラシャの夫の細川忠興がその名を連ねています。「わび茶」の宗匠の千利休自身がキリシタンであったという確証はありませんが、その妻・おりき(宗恩)がキリシタンであったことから、キリスト教に対する関心が大きかったことは間違いないでしょう。事実、茶室の「躙り口(にじりぐち)」は、「狭き門から入れ」(マタイ福音書7章13節)を元に考案されたと言われています(千宗室氏)。
- 門…イエス様は「わたしは(羊の)門です」(ヨハネ福音書10章7、9節)とおっしゃいました。そして「わたしは羊のためにいのちを捨てます」(同15節)ともおっしゃいました。先日、イエス様の夢を見ました。それは十字架からイエス様の血潮が音を立てて内側に注がれる夢でした。まさに贖いの血潮でした。この血潮の注ぎが生命の水(=聖霊)の通路を創る主の働きでした。「明日、心臓の手術をする」と言う主の声がしました。主のお心を自らの心として生きるという事と受け止めました。
- ガリラヤの人に…聖霊降臨は、自らの欠けと弱さを知っている者、ガリラヤの人の上に注がれたのです。バベルの塔を築いて神の座に近づこうと企てる時、混乱が生じ、分裂が生じますが、悔いし砕けた心で、ひとつ心になって祈る時、豊かに聖霊が一人ひとりの上に臨まれます。
- 結び…羊の門であり、躙り口である主イエス様の内に入って、平安を得るよう祝福して祈ります。
Posted on 05/01/2016 at 05:18, by matsumoto
そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。(使徒の働き1章26節)
- はじめに…ドリームジャンボ宝くじの発売が5月11日から始まり、1等前後賞合わせて7億円だそうです。収益金の一部(100億円)は熊本地震の復興支援に充てられるとのこと。聖書には宝くじはありませんが、神様のみこころを知る方法のひとつとして“くじ”を用いられたことが随所に記されています(レビ16:8、詩22:18、ヨナ1:7、ルカ1: 9、ヨハ19: 24等参照)。
- 心を合わせ祈り始めた…弟子たちは復活のイエス様のみことばを受け、あの二階の大広間で心を合わせ、祈り始めました。男女合わせて120人でした。復活のイエス様を見、みことばを聞いた人は5百人でしたから、約4分の1の者がイエス様のみことばに忠実に従って、約束の聖霊を待ち望みつつ、祈りました。木曜日、金曜日、土曜日、そして日曜日。よみがえりの日の今日こそ聖霊を受けるに違いない…。しかしこの日も何事もなく暮れたのでした。
- 待つ試練…弟子たちのなかに、一抹の不安、疑いの思いが入って来たかも知れません。「もう間もなく」とイエス様はおっしゃったのに…。空耳だったのか…。月曜日、火曜日、水曜日…。時はむなしく過ぎ去って行きました。“待つ”ということは容易ではありません。それこそ信仰がなければ“待つ”ことはできません。私たちの自我、あるいは世は、待てません。すぐに結果を求めます。“待つ”ことを通して主は、私たちの信仰を練られます。
- マッテヤ…皆のなかに疑念のさざなみが立ちつつあるとき、ペテロが立ち上がり、詩篇のみことば(詩篇41:9、69:25、109:8等)を通して、イエス様が徹夜の祈りをして選ばれた12使徒(ルカ6:12-13)の欠員の補充を提案し、祈りました。そして神託を求めくじを引き、マッテヤに当たりました。きっとマッテヤは“人事を尽くして天命を待つ”人だったと思います(使徒1:22参照)。
- 結び…今週も祈りつつ待ちつつ、置かれたところで最善を尽くすお一人ひとりであるよう、祝福して祈ります。
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