Archive for 1月, 2022

Posted on 01/30/2022 at 20:51, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主に顔を向ける』(イエス・キリストの生涯 その196)(2022.1.30)

わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(イザヤ書45章23節)/ (…)すべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2章10-11節)

  • はじめに…先週1月27日はユダヤ人強制収容所のアウシュビッツが解放されたことを記念する『国際ホロコースト記念日』でした。現在、イスラエルに在住する生存者は、16万5800人とのこと。平均年齢は85歳で3人に1人は貧困で、チャリティからの支援を受けているそうです。ユダヤ人は受難の民と言えます。エジプトでの苦難、バビロン捕囚、アウシュビッツ、謂われなき迫害。ベネット首相はこの日、次のようにメッセージを発信しています。「イスラエルは、(世界の)無関心に対するユダヤ人の抵抗である。(…)この記念の日、不条理への無関心と戦い、犠牲となった人々をおぼえよう。ユダヤ人は2度と無力にはならない。2度とホームレスにはならない。ホロコースト(ショア―)の恐怖は消せないが、私たちと世界のよりよい未来を作ることは可能だ。「Never Again」は単なるキャッチフレーズではない。」
  • 油そそがれた者クロス…イザヤ書45章は44章の最終節「わたしの牧者」に続けて「油そそがれた者」と、主がペルシャの王クロスに語られたことから始まります。エズラ書では「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせた」とあります。つまり主は、異邦人の霊を奮い立たせ、牧者、王として、主のご計画(目的)の成就のために用いられるのです。
  • 仰ぎ見て救われよ…その主の目的は、すべての人が救われることです。22節に「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」とある通りです。救われるためはどうしたらよいのでしょうか? それは、「わたし(主)を仰ぎ見ること」です。“仰ぎ見る”と訳されてあるところを原語は“顔を向ける”です。人間はラテン語では「ホモサピエンス(知恵ある者)」であり、ギリシャ語では「アンスローポス(上を向く者)」です。ヘブル語では「アーダーム(土から造られた者)」です。つまり創造主は人間を“主に顔を向ける者” “イエス・キリストは主である”と告白する者として創造されたのです。
  • 結び…ただ一度、完全な全焼のいけにえとしてご自身を献げられた独り子なるイエス様に顔を向けるとき、絶望も希望も失敗も成功もひっくるめて真に愛に満たされた瞬間瞬間を生きられる、そうみことばは語っています。感謝
Posted on 01/23/2022 at 20:11, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『安息日の主』(イエス・キリストの生涯 その195)(2022.1.23)

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(イザヤ書42章3節)/彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは(マタイ12章20節)

  • はじめに…昨年の九月から下の孫の学習はホームスクールで行なっていますが、先々週から、月2~3回のペースでチャーチスクールに通うようになりました。私が子どもの頃は、学校へ行かず、家や他の場所という選択肢はありませんでした。親の考え、あるいは世間の物差しで子どもの生活を規定し、その枠に当てはまらない場合は、不登校児、怠け者、落ちこぼれ、不良というレッテルを貼られました。
  • わたしのしもべ(=子)…イザヤ書42章は、主と人間(ユダヤの民と異邦人、そして私たち)との関係について記されてあります。ユダヤ人も異邦人も、現実を見ると出来の悪いしもべです。ユダヤ人は主に信頼せず他国や自分自身の力に頼り、異邦人は主を知りませんでした。しかし主は、そんな私たちを「わたしのしもべ(あるいは子)」と呼んでくださいます。
  • 葦(あし)…今日のテキストに「いたんだ葦を折ることもなく」とあります。たいてい「もっとも弱いものに対する優しさ、思いやりの心」という意味で解釈されるところです。その根拠を二つの側面から観ることができます。ひとつは言葉の持つ原意としての側面です。“葦”は原語のヘブル語で“カーネー”です。そしてギリシャ語では“カノン”になりますが、それは“正典”、という意味で使われますが“基準、律法”です。もうひとつは、マタイでの引用の文脈です。「いたんだ葦を折ることもなく」(マタイ12章20節) の前の文脈を観ると、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたり、イエス様がいやしを行ない、律法の専門家であるパリサイ人たちが律法違反ではないかと問うています。その心は、イエス様をおとしめようとする悪意に満ちてのことです。律法のその本質は人を生かすためであり、主との関係を真っ直ぐにするものです。イエス様をおっしゃいました。「人の子(わたし)は安息日の主だ」(マタイ12章8節)。イエス様は、律法は縛ったり、殺したりするものではなく、解放するものだ、そして主ご自身が“真実なる葦”(まことの律法、律法を超える律法=福音)だということを、生活のなかで身をもって顕されたのです。
  • 結び…安息日の主、律法の完成者であるイエス様のみことばに生かされ、照らされて祝福と恵みのなかで過ごすことが出来ることを感謝します。
Posted on 01/16/2022 at 19:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『創始者であり、完成者』(イエス・キリストの生涯 その194)(2022.1.16)

だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41章4節) また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(ヨハネ黙示録21章6節)

  • はじめに…昨日、オーストラリアの西に浮かぶ島国のトンガ沖で海底火山が大規模な噴火をして、津波がトンガに到達し、道路や建物が浸水するなどの被害があったようです。その津波は日本沿岸にも到達し、奄美市では1・2メートルの津波が観測されています。火山の噴火、地震、ハリケーン、大雪、そしてコロナ等々、自然の力の前で非力な人間の姿を見せつけられます。ところで明日17日は、27年前に阪神淡路大震災が発生した日です。ちょうどその時、私は西宮の親戚の家にいて地震に遭い、今でも「その時」(クロノス)のことをリアルに思い出します。同時に「その時」(カイロス)は私の人生にとってのターニングポイントになりました。私の生き方そのものを揺さぶられ、献身へと導かれたのです。
  • 初めであり終わり…イザヤ書41章は、バビロンに捕囚されたイスラエルの人々を含む、全世界の人々(島々、諸国の民)に向けて語られた預言です。「ひとりの者を起こす」(イザヤ書41章2節)と。この「ひとりの者」とは、後にイスラエルの民をバビロンから解放することとなったペルシャ王クロスです。その歴史的出来事を成し遂げたのは「わたし、主」だと。そしてその主こそ「初めであり、終わり」なのだと、みことばは語ります。つまり主は時=歴史をその最初(創造)から最後(終末)に至るまでつかさどる者、歴史の主宰者だというのです。この箇所は黙示録で引用されており、イエス様ご自身が最初であり、最後である者だと、ご自身のことを明らかにしています。
  • 解放そして礼拝…異邦人であるペルシャの王クロスを用いてイスラエルの民をバビロンから解放した主。何のために解放したのかというとエルサレムに主の宮を建てるためです(エズラ記1章2節)。つまり礼拝、賛美を通して主と民が交わりを持つためです。そしてエルサレムの宮での礼拝は、終末において時間的制約を超え、主と人との永遠の麗しい交流へと展開していきます。今日の礼拝が終末、すなわち新天新地における礼拝の先取りの礼拝です。
  • 結び…アルファ(創始者)でありオメガ(完成者)であるイエス様は、いつも私たちとともにおられるインマヌエルなるお方です。ハレルヤ! アーメン!
Posted on 01/10/2022 at 19:56, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『荒野の声(希望のメッセージ)』(イエス・キリストの生涯 その193)(2022.1.9)

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を備えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ」(イザヤ書40章3節) この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。(マタイ福音書3章3節)

  • はじめに…先週の木曜日、終日肩こりと頭痛がして体調不良でした。痛み止めの頓服を飲んでも効き目がありませんでした。無力さと心細さで弱り果てていました。その日は仕事を少し早めに切り上げて午後8時には就寝しました。ラジオを聴きながら横になっていたのですが、その時流れてきたのはショパンのピアノ曲でした。そのピアノの鍵盤を叩く音が、脳の中の疲弊した神経をほどよくマッサージしてくれるようで、徐々に頭痛と肩こり、そして心がほぐれていくようでした。音楽のいやし効果を実感しました。イザヤ書38-39章に記されているヒゼキヤの病のいやしの心境でした。以前、私は自身の目指す牧会をメッセージ(宣教)・ミュージック(賛美)・マッサージ(按手・手当て)の三つのМによる牧会“3М牧会”と称したことがありましたが、今回の頭痛のいやしの体験を通して改めて霊・魂・からだの全体にアプローチする牧会の大切さを確信させられました。
  • 第二イザヤ…今日のテキストのイザヤ書40章以降は、「第二イザヤ」と呼ばれている箇所です。ユダヤ人はエルサレム神殿(ソロモン神殿と第二神殿)の破壊を記念する日、ユダヤ暦のアブの月の9日に断食と哀歌の朗誦をします。それに続く安息日に、このイザヤ書40章を朗読します。冒頭「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(イザヤ書40章1節)と、“慰め”が二回繰り返されることによって、二回の神殿破壊の悲しみが主によって慰められるという約束、希望のみことばとして受け止められているのです。私たちキリスト者にとっては、私たちのアイデンティティ、人生の根幹が崩されるような悲しみに遭ったとき、イエス様がそのふところに抱き「今、悲しんでいる者は幸い。慰められるから」(マタイ福音書5章4節)と、信仰によって具体的にイエス様と人格的に交わり、慰めを受けられる祝福を頂いています。
  • 主の道を整えよ…「荒野に呼ばわる者の声」(イザヤ書40章3節)がして、「主の道を整えよ」(同)と。荒野という先の見えない困難な状況のただ中で、霊・魂・からだを救いの通路として調整するようにというメッセージです。
  • 結び…神のことばは永遠であり、慰めに満ちており、荒野を前にして二の足を踏む私たちに自由の翼を与え、力を与えてくださいます。感謝。
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