Archive for 2月, 2022

Posted on 02/27/2022 at 15:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『病を負い、痛みを担われる主』(イエス・キリストの生涯 その201) (2022.2.27)

『開かれた聖書の静物』(ゴッホ) 聖書は牧師だったゴッホの父親の遺品で開かれているのはイザヤ書53章

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ書53章4節)/これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」(マタイ福音書8章17節)

  • はじめに…ロシア大統領プーチン氏の命令によって24日、ロシア軍がウクライナに侵攻を開始しました。国際社会はロシアの力によるウクライナへの介入を非難し、即時撤退を求めています。また広島、長崎を含む世界各地で戦争反対のデモが呼びかけられ、大勢の人々が参加していますし、SNSでも戦争停止を要求する公開書簡が公表されたり、署名活動が行なわれています。私たちも祈りとみことばをもって、抗います。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26章52節)
  • ゲッセマネの祈り…これはユダが挨拶の口づけの合図によって、群衆がイエス様を捕らえた際、勢い余って大祭司のしもべの耳を切り落とした弟子のペテロに対して語ったことばです。ペテロの行動は、力に対して力で対抗しようとする、ある意味、自然な人間の本能的行動、正当防衛といえるでしょう。しかしイエス様は、それを是とはしませんでした。
  • 十二軍団よりも多くの御使い…イエス様は御使いの援護を要請する権威がありました。それは十二軍団(1団=6千人×12=7万2千人)よりも多いのだと。しかしその力も行使しませんでした。大きな石臼で油を搾る(=ゲッセマネ)ように全身全霊で父なる神に祈り、ただお一人で、すべての人の罪を背負って十字架に付かれました。
  • みことばといやし…そもそもイエス様のいのちが狙われるようになったのは、イエス様の語る核心に迫るみことばと数多のいやし、すなわち“愛の行ない”の結果、民衆の心がイエス様に向き、律法学者やパリサイ人らの“ねたみ”“嫉妬”を買ったが故です。ねたみは罪人(自己中心性、自己義認)の最大の病、痛みと言えるでしょう。それを主は一身に負われ、なおかつ、とりなしをされる、そうイザヤは「苦難のしもべ」として53章で預言しています。ゴッホの『開かれた聖書の静物』という作品があり、まさしくそのメッセージを伝えようとしています。
  • 結び…イエス様は生涯、天の父を愛し、隣人(私たち)への愛を貫き通しました。嫉妬、所有欲という剣に替えて、互いに愛せよ、そうイエス様は今、ウクライナの真ん中で叫んでおられます。
Posted on 02/20/2022 at 19:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『信仰義認-主が備えてくださる』(イエス・キリストの生涯 その200) (2022.2.20)

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。(イザヤ書52章7節)/彼遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ人への手紙10章15節)

  • はじめに…デイサービスでは利用者さんの様々な支援(介護)を行ないますが、やはり一番気を付けるのは転倒防止のための見守りといっても良いでしょう。立ち位置が大切です。近過ぎず、遠過ぎず、ちょうどよい距離が利用者スタッフ双方にとって心身両面の質の高いサポート環境になります。今、北京五輪で活躍しているカーリングのチームを育てた本橋麻里さんは、選手との距離を「一歩引くと他人事になっちゃうけれど、半歩引いてサポートする」ことが大事と語っています。言い得て妙です。イエス様と私たちとの関係もそうかも知れません。
  • 王即位の歓喜…今日のテキストはイザヤ書52章です。今日の箇所は、エルサレムに残っていた民(見張り人)が、帰還してくる同胞を発見して対面する場面です。それは王が即位する時のような歓喜に溢れた対面でした。「あなたの神が王となる」との宣言が響いていました。その知らせを伝える者の足は美しいと、イザヤは語ります。
  • 足…ここで使用されている“足(=ヘブル語)”と同じ語は、ヨシュア記3章13、15節で使われています。主のことばを聞いたヨシュアの伝えることばを民が信じて起こった「ヨルダン渡河」の出来事です。時は第一の月の10日でした。
  • 山…また、“山々(=ヘブル語)”創世記7章19節、8章5節で使われており大洪水の後、「ノアの箱舟」がアララテ山にとどまり、水が引いた後、ノアは箱舟の外に出て、祭壇を築き、全焼のいけにえをささげました。ノアも神とともに歩み、主の命じられた通りに箱舟を作りました。それと創世記22章2節のモリヤの山です。アブラハムの「イサクの奉献」です。パウロは信仰による義をロマ書で明らかにしました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」「主の御名を呼ぶものは、だれでも救われる」(ロマ書10章10、13節)。いずれも“過ぎ越し”が背景にあります。
  • 結び…イエス様は過越の祭りに際して、晩餐で弟子たちの足を洗い、ゴルゴタの丘(山)へ歩まれました。主は私たちの必要をすべて備えて下さいます。
Posted on 02/13/2022 at 21:52, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主のしもべの歌 その2』(イエス・キリストの生涯 その199)(2022.2.13)

彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。(イザヤ書49章10節)/彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(ヨハネ黙示録7章16-17節)

  • はじめに…北京五輪は波乱に満ち、悲喜こもごも。スキージャンプの高梨沙羅選手は、103メートルを超えるジャンプの後、スーツの規定違反で失格になり、フィギュアスケートの羽生結弦選手はショートプログラムの冒頭、氷に空いた穴にはまって、4回転が1回転になり出遅れ、メダルを逃し、共に涙しました。その後、メディアやファンからの「自分を責めないで」「美は国や個人の価値観を超える」「真の精神ね」など、励ましや賞賛の声が広がっています。聖書は語ります。「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」
  • 困難な道のり…先主日に続いてイザヤ書49章のみことばから主のメッセージを聞きます。主はイスラエルの民をバビロンの捕囚から解放し、聖なる都エルサレムへの帰還の道を啓かれました。その荒れ地の道のりは1000キロを超える距離です。しかも帰るべき都も荒れ果てています。目の前の現実を見たらとてつもなく困難な道のりです。人間的な努力や精神力では太刀打ちできる状況ではありません。助け、ガイドが必要です。
  • あわれむ者が導く…主は、その困難な状況のただ中にある者(私たち一人ひとりも含めて)をあわれむ者が道のりを共に歩いてくださる(10節)とみことばは語っています。主はコンパッション(compassion)してくださいます。感情を共にしてくださり、受難を共にしてくださるお方です。
  • 御座の正面におられる小羊…使徒ヨハネは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還の預言の出来事を下敷きにして、“大患難時代”に証し人として生涯をまっとうした者(白い衣を着ている人たち)の、天での祝福の出来事として引用(啓示)しています(黙示録7章16-17節)。バビロン捕囚の解放とエルサレムへの帰還を導いた「あわれむ者」は、新しい天と新しい地、天の聖都の“御座の正面におられる小羊”の前触れだということです。
  • 結び…天の出来事(祝福の真実)を地の出来事(歴史)の中に顕わして下さる主に信頼して日々を歩める幸いを主に感謝します。
Posted on 02/06/2022 at 19:57, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主のしもべの歌』(イエス・キリストの生涯 その198) (2022.2.6)

「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」(イザヤ書49章8節)/神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(②コリント6章2節)

  • はじめに…私たち夫婦は、毎朝食前の祈りのときに、聖書を3カ所朗読します。マタイ18章19節①テサロニケ5章23-24節、それとエレミヤ書33章3節です。エレミヤ書33章3節「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう」。文脈から言えば続く4節-9節の内容、主によるいやし、赦し、祝福が与えられるということになります。歴史的に言えばバビロン捕囚の苦難からの解放の出来事です。それは主のみこころですから、同様のいやし、赦し、祝福が、今を生きる私たちにも具体的に与えられることを意味しています。
  • あなたを忘れない…先主日は、異邦人であるペルシャの王クロスの霊を奮い立たせ、イスラエルの民をバビロンから解放し、かつての都エルサレムへ帰還させ、主のご計画(目的)の成就のために用いられたことを学びました。その目的は主を仰ぎ見ること、主に“顔を向ける”ことでした。乳飲み子は無条件に母に顔を向け、乳を求めます。母はその子に乳を与えること、愛することで平安に満ちます(イザヤ書49章15節前半)。しかし先の見えない中で、バビロンの虜になっていたイスラエルの民は「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」(同14節)と嘆く日々を送っていました。しかし主は一瞬たりとも私たちをお忘れにはならないお方です。
  • 手のひらに刻んだ…主は「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(同16節)とおっしゃっています。永遠なる創造主が、その手のひら(複数形)にわたしたち一人ひとりを刻み付け、記憶しておられるのです。その永遠なる創造主は生まれる前から私たち一人ひとりの名を呼んでくださるお方です(同1節)。そして主は「手を上げ、わたしの旗を掲げる」(同22節)とおっしゃいます。旗じるしは手のひらに刻まれた私たち一人ひとりです。生前のイエス様は両手でいやしをされました。そして十字架の贖いの死を通られたイエス様は、その釘跡のある両手を弟子たちに示されました(ヨハネ21章20、27節)。イエス様の両手にある釘跡は、私たち一人ひとりの罪の贖いのしるし、私たちがイエス様によって生かされている、恵みと救いのしるしです。
  • 結び…いやし、赦し、祝福してくださる主、絶対に忘れない主に感謝。
アーカイブ ログイン お問い合わせ