Archive for 4月, 2022

Posted on 04/24/2022 at 18:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『耳が満たされる』(イエス・キリストの生涯 その209)(2022.4.24)

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすためにわたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と(…)(イザヤ書61章1-2a節、ルカ福音書4章18-19節)

  • はじめに…昨年の9月から今年の9月までの1年間は「安息年」です。さらに安息年が7回巡った次の年は「ヨベルの年」(直近では2015-2016年でした)とされ、土地も人(奴隷)も解放される、つまり創造の主が造られた姿に回復する時として聖書に定められています(申命記15章、レビ記25章参照)
  • 会堂で朗読されるイエス様…今日のテキストはイザヤ書61章1-2a節とルカ福音書4章18-19節です。“主による油そそぎと派遣”の記事です。しばしば献身の召命のみことばとして取り上げられます。このことが力あるみことばの証しでもあるのでしょう。イエス様は、このイザヤ61章1-2a節を、ご自身の故郷であるナザレの会堂で朗読されました。ユダヤ教の会堂では最初、律法の書(トーラー)が朗読され、その後で、ハフタラー(締めくくり)として預言書が朗読され、必要に応じて奨励が語られました。ナザレの会堂に集まっていた人々(イエス様の成長を見ていた人々)は、イエス様のことばに驚いたと記されています(ルカ4章22節a)
  • ヨセフの子ではないか…イエス様の語ることばに驚きつつも、一方で「(あの大工の)ヨセフの子ではないか」(同22節b)油注がれた=メシヤに対する疑念を露にしました。その会衆の思い(自我)をご覧になったイエス様は、エリヤとエリシャの時代に、主の恵みがイスラエル人には与えられず、異邦人に与えられた出来事を聖書から語りました(①列王17章、②列王5章参照)。イエス様の本意は、主の恵みはイスラエル、異邦人という区別、差別ではなく、みことばに信頼するかしないか、ということでした。しかし自我に凝り固まった会衆の怒りを買い、間一髪、崖下へ突き落される危機に遭いました。
  • 耳は満ちた…イエス様はイザヤ書を朗読し奨励を語る最初に「聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(同21節b)と宣言しています。マルコ福音書、マタイ福音書では「時は満ちた。天の御国が近づいた」(マルコ1章14節、マタイ4章17節)と語られています。それをルカ福音書では「耳が満たされている(直訳)」と語っています。医者ルカらしい表現です。
  • 結び…主の恵みの日、イエス様が、活きて働くみことばで、私たちの耳を満たして下さり、新しい一週間の力を与えて下さっていることを感謝します。
Posted on 04/17/2022 at 20:38, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『復活』(イエス・キリストの生涯 その208)(2022.4.174)

国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む(…)あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである(イザヤ書60章3、11節)/ 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。(黙示録21章24-26節)

  • はじめに…今日は、イースターです。イエス様がこの地に聖霊によって生まれ、愛を貫いて歩み、十字架に死んで後、よみがえられたことを記念する日です。そのことをヨハネ福音書3章16節は、簡潔に言い表しています。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』韓国のワーシップデュオのラブストーリーがFacebookで、このヨハネ3章16節のワーシップソングを、世界6か国のゴスペルシンガーがそれぞれの国の言葉(ヘブル語・アラビア語・ロシア語・英語・韓国語・ペルシャ語)で賛美する動画をアップしています。主の愛、そして主への愛は国境を越え、ことばを超えます (https://www.youtube.com/watch?v=S6cxaxnV1nA)。
  • 都の門は開かれている…今日のテキストはイザヤ書60章3、11節と黙示録21章 24-26節です。“天の都(宮)”の預言、啓示です。その門はいつも開かれていて閉じることはないと言われています。国々から財宝が運ばれ、諸国の民が栄光と誉れを携えて来る、そう語られています。ルカ福音書は宮での礼拝で始まって、宮での礼拝で締めくくられ、最終節には弟子たちが、復活し、昇天されたイエス様に栄光と誉れをささげる様子が記されています。その思いは天の都に向けられていますし、天の都の門が開かれていることを実感します。冒頭紹介した世界6か国のゴスペルシンガーが賛美をささげるのと同じ思いで栄光と誉れを天の宮そのものであるイエス様にささげたのでしょう。
  • 都の光によって歩む…天の門は開かれているだけではなく、そこから光が差し、諸国の民の歩みを導くと語られます。天の都は、いのちが輝き、あたたかな愛に満ちた、エデン(「歓喜」「隅々までよく潤された所」の意)の園です。イザヤ60章1節は「起きよ(ヘブル語でクミ)。光を放て」で始まります。イエス様は死んだ少女におっしゃいました。「タリタ、クミ」(マルコ5章41節)
  • 結び…復活の日、イエス様は私たちに“起きよ”と語られます。永遠のいのちを受けた私たちは「ハレルヤ、アーメン」と栄光と誉れをささげます。
Posted on 04/10/2022 at 15:51, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神の武具』(イエス・キリストの生涯 その207) (2022.4.10)

主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた(イザヤ書59章17節)/ (…)胸には正義の胸当てを着け、(…)救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい(エペソ6章14-17節)

  • はじめに…今週から「受難週」に入ります。イエス様が十字架へ向けて歩まれた一週間です。それは十字架の死ですべてが終わるのではなく、大どんでん返し、一発逆転の始まりです。それゆえに私たちは「死」で終わりではなく、「死」の乗り越える希望を抱き、困難な今を生き抜く力が与えられるのです。
  • 恩師の死…4月1日に私たちの恩師である李天秀牧師が天に召されました。私たちが韓国にいるときに古希(70歳)のお祝いを“トルチャンチ”(1歳の誕生祝い)と言って盛大なお祝いをしました。そんな先生でしたから、召天された日は、しめやかに葬儀を営むのではなく、“新生”の喜ばしい日としてお祝いの席にするのがふさわしいと思います。イエス様の御腕に抱かれて、主の愛で満ち足りた思いでいっぱいでしょう。
  • 救いのかぶと…敬虔なユダヤ人は、聖書に記されてある記章=テフリンと呼ばれる革製の小箱を頭つけて祈ります。その中には、羊皮紙に記されたみことば(申命記6:4-8、申命記11:13-21、出エジプト記13:1-10、出エジプト記13:11-16)が入っています。いわゆる「シェマの朗誦」と呼ばれる箇所のみことばで、イエス様もその申命記のみことばと、関連する箇所を度々引用されました(マタイ22章37節、同4章4、7、10節他)。創造の主は、ユダヤ人が祈りの際、身に着けるテフリンを“救いのかぶと” (コバ イェシュアー)として身に着けておられる、そうイザヤは語っています。つまり創造の主の思いは、イェシュアー=イエス様への愛で満ちているのです。使徒パウロはこの箇所を当時世界最強と言われたローマ兵の武具になぞらえるようにして、引用しています(エペソ書6章11-17節)。迫害の中にあったエペソの教会の人々に、迫害する者に対する敵意ではなく、イエス様の天の父への愛、そして隣人への愛、その愛する思い、そして行動が悪魔(世の力)から完全に身を守る霊的な武器なのだ、そう励ましているのです。イエス様の愛、行動が最高潮に具体的になったのが受難の出来事ということができます(イザヤ59章19-20節)
  • 結び…『老後の保険は、イエス・キリストを着ること』と李天秀牧師はおっしゃいました。イエス様(=神の武具)を着て、隣人とともに平安の日々を過ごし与えられた地上での生涯をまっとうしたいと願います。
Posted on 04/03/2022 at 14:44, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『遠くの者にも近くの者にも平安あれ』(イエス・キリストの生涯 その206) (2022.4.3)

「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と【主】は仰せられる(イザヤ書57章19節)/ それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちも平和を宣べられました(エペソ2章17節)

  • はじめに…先週、桜が一気に咲き、春を告げています。春の花は、暖かいほど早く咲きます。ただ、その前に一定の寒さを経ないと休眠していた芽が目覚めず、花は咲かないそうです。つらい寒さを経てこそ花も咲く由、私たちの人生も同じではないでしょうか? つらい出来事があります。不条理なこともあれば、自らの過ちから招く苦難もあります。しかし主は、それらの困難の後、平安を告げられる方です。
  • 荒廃した都で…今日のテキストはイザヤ書57章です。バビロン捕囚から解放されて後、都エルサレムに帰還したものの、帰還民は貧しく、困窮の中にあり何から手を付けたら良いのか分からない状態でした。希望に燃えて帰ってきたものの失望落胆、あるいは「どうにでもなれ」というような思いがありました。主を見失っている状態でした。その民に向かってイザヤは、主が導かれる将来に目を向け、再び希望に生きられるよう預言を語りました。
  • 平安といやし…「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」(イザヤ57章19節)と主はおっしゃいました。主は荒れ果て、渇いた心を聖霊で満たして下さいます。そして主との関係を完全に回復して下さいます。それが主の下さる「平安」と「いやし」です。その方法はイエス様の受肉、十字架、復活と聖霊派遣です。「平安」と「いやし」の招きから漏れる人は一人もありません。「平安」と「いやし」の招待状(みことばの招き)はすべての人の心のポストに届いています。「彼(イエス様)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の内傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章5節)「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」(ヨハネ14章18、27節)「平安があなたがたにあるように」(同20章19、21、26節)「聖霊を受けなさい」(同22節)
  • 結び…イエス様は、私たちの患難、辛苦、痛みをご存じであり、共にご自身の身に引き受けて下さっておられます。私たちを見捨てて孤児とはされず、永遠に天の都で住まわれます方です。その方が今、共におられます。感謝。
アーカイブ ログイン お問い合わせ