Posted on 07/08/2023 at 21:35, by matsumoto
私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31篇5節) /イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカの福音書23章46節)
◆はじめに…毎日、炊事洗濯をしてほぼ二週間。日に日に段取りが良くなり、食事のバリエーションも少しずつ増えつつ、日常のルーティンになってきました。基本、家事は三六五日休みなしなので、世の専業主婦の方々には敬服します。どうモチベーションを保っているのか、尋ねてみたいです。
◆夕べの祈り…さて、ユダヤ人は今日のテキストの詩篇31篇を夕べの祈りとして祈ると言われています。私も先週から、この詩篇31篇を毎夕の祈りとして祈っています。祈りは“呼吸”“交流”です。そしてそれは「瞬間のいのち」「日々成長するいのち」そして「永遠のいのち」につながっていきます。イエス様ご自身も一日の御業を終え、ひとり寂しい所へ退かれ、詩篇31篇の一節「わが霊を御手にゆだねます」と毎夕、祈っておられたのではないでしょうか。日々を精一杯、力の限り生き、御業をなし、疲れ果てたからだを横たえ休むとき、すべてを父なる神に委ねて眠りについたことでしょう。イエス様は言いました。「その日の労苦はその日だけで十分」。「疲れた者はわたしのところへ来なさい。わたしが休ませてあげよう」。
◆賜物としてのいのち…夜が明け、朝がやって来るとき、それは父なる神が創造の初めに、霊の息を最初の人アダムの鼻から吹き込まれ、生きる者となったように、私たちも、毎朝、新しいいのちが賜物として与えられます。その賜物としてのいのちをその日一日、日が上り暮れるまで思い切り用いることが、いのちを与えられた人の使命でしょう。そして一日の終わりに、自らの内に残っているいのちをすべて主の御手にお返し=信託するのが、今日の詩篇31篇5節の祈りでしょう。
◆レプタ2枚の信託…レプタ2枚をささげた貧しいやもめの出来事が聖書に記されてありますが、この婦人の信仰も“御手への信託(贖い)”の信仰そのもの、具体でしょう。今日のいのちとそれを支える財(賜物)を、すべてを主に信託し、翌日、いのちが新たに贈り物として与えられるなら、それはいのちの一新、“いのちのバージョンアップ”(主に対する信頼が増す)でしょう。
◆結び…その父なる神に対する絶対的信頼ゆえに、「私の霊を御手に委ねます」と十字架の上で、地上生涯最後の祈りとして、イエス様は祈ったのでしょう。
Posted on 07/01/2023 at 20:27, by matsumoto

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住む(障がいがあっても、老いても“良い”とされた=筆者補足)者は主のものである。(詩篇24篇1節) /地とそれに満ちているものは、主のものだからです。(①コリント人への手紙10章26節)
◆はじめに…先々週、先週と大きな出来事がありました。ひとつは、入浴介助で利用者さんを抱えた際、腰を痛め、立ち上がりが困難になり、病院受診のため一日、仕事を休んだこと。もう一つは、眞津代牧師が歯の治療のため約2カ月の予定で春日井へ帰省し、その間、私自身、単身赴任状態になったことです。腰の方は早目の病院受診で悪化は免れ、単身赴任状態の間は、自己の健康維持・メンタル管理が喫緊の課題です。羊飼いなる主イエス様に朝夕祈る毎日です。
◆すべての創造者なる主…先主日は詩篇23篇「主は私の羊飼い」が主題でしたが、今回の詩篇24篇は「すべての創造者なる主」が主題です。壱岐の島では主の創造の壮大さ、偉大さを実感させられる所が島中にあります。今回アップした写真のように、詩篇24篇2節「まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川(潮流)の上に、それを築き上げられた」とのみことばを実感させられる場所も、各所にあります。主の創造の御業の源は“愛”です。そして創造したすべてのものを“良い(=憐れまれた)”とされました。愛と憐れみの主です。
◆永遠の門、戸よ。上がれ…使徒パウロは、この詩篇24篇1節のみことばを引用しています。それをキリスト者の「自由と愛」の文脈の中に置いています。そして、すべての真の所有者は主であり、主の御心(栄光)に基づいて行動の価値判断をするよう、勧めています。私たちは誰の意志(声)を大切にし、具体的行動に移すのかが、問われます(創世記参照)。私たちには主の御声に聞き従う“自由”があり、利己ではなく利他、すなわち“愛”を基準にして行動する責任応答性が求められています。自らの知識に依り頼むのではなく、聖霊による感動が“自由と愛”の確かな霊的判断基準になります。困難、試練はあります。しかし、乗り越えられない試練はなく、それに耐えうる力、知恵、脱出の道(主に近づく道)が必ず与えられます。今、エルサレムの東側にある黄金門(美しの門)は分厚い壁で塞がれています。私たち自身の霊(心)の門はどうでしょうか? イエス様が私たちの戸の外に立って「戸(門)を開けて」と御声を掛け、ノックしておられます。
◆結び…私たちが固く閉ざしている戸(門)をイエス様の御声を聞いて開くとき、イエス様の“自由と愛”が私たちの心の中に止めどなく流れ込んで来ることを信じます。それは創造主が私たち一人ひとりに持っておられるイメージ(似姿)です。
Posted on 06/24/2023 at 21:45, by matsumoto
主は私の羊飼い(ローイ=ヘブル語/ポイマイネイ=ギリシャ語)。私は、乏しいことがありません (詩篇23篇1節) /わたしは、良い牧者(ハーローエー=ヘブル語/ポイメーン=ギリシャ語)です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます(ヨハネ福音書10章11節参照)
◆はじめに…詩篇23篇ほど、キリスト者、ユダヤ教徒、そして他の宗教を信仰している人、さらに無宗教の人にいたるまで、多くの人に知られ、そして愛されている聖句は、他に無いのではないでしょうか? ところが、驚くべきことに、新約聖書に、この詩篇23篇の聖句は引用されていません。ただ、直接引用ではありませんが、今日のテキストで取り上げたヨハネ福音書10章11節において、イエス様がご自身の自己開示として“牧者(羊飼い)”だと明言されたみことばが刻まれていることは皆さんご存じだと思います。
◆主は私の羊飼い…「私たちって、相当、遊牧民族ね」と家内。イエス様が羊飼いですから、当然といえば当然です。羊なる私たちにとって、羊飼いの導きに従うこと、それがいちばん確かな歩みだということに間違いはありません。今、私たち夫婦が生きていること自体がその証しです。イエス様は「万軍の主」「王」として私たちから遠く離れて立つ、雲の上の存在としてではなく、弱い羊を牧する羊飼いとして、いつも私たちの近くにいてくださいます。主の声、主の眼差し、主の杖が間近にある安心安全は、他に比肩するものはありません。「アドナーイ ローイ」のわずか2文字のヘブル語に込められた告白のパワーには圧倒されます。
◆羊のために命を捨てるイエス様…詩篇22篇の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」とのみことばを十字架で叫ばれたイエス様。ご自身を「わたしは、良い(あわれみの)牧者(羊飼い)であり、羊の(命の)ために(自らの)命を捨てる」とご自身を啓示されました。イエス様は、羊飼いが百匹の羊のうち一匹の羊が迷ったら、九十九匹を残して一匹を見つけるまで(身の危険を顧みず=命を捨ててでも)捜すでしょう、と語られました。イエス様は群れを牧場に伏させ、水辺に導き、一人の命(名前を持った固有の命)を大切にされる方です。主イエス様は私の(皆さんお一人ひとりの)羊飼いです。その主が共におられることを心の底から信じられるならそれに優る幸いはありません。逆に言えば、それだけで充分です。欠乏はなく、恵みで満ち溢れます。羊飼い―羊の関係は盤石です。
◆結び…イエス様は、天国の門を開き、すべての人の帰りを待っておられます。天の御座に座っているだけでなく、身を乗り出して引き上げてくださいます。
Posted on 06/16/2023 at 21:27, by matsumoto
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも、(詩篇22篇1節) /三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27章46節)
◆はじめに…現在、詩篇が引用されている新約の箇所を続けて学んでいます。夕べの祈りの詩篇4篇、乳飲み子のホサナの詩篇8篇、揺るぎない主の支えの詩篇16篇、そして復活の調べなる主の御声の詩篇19篇、それぞれの詩篇から日々の慰めと励まし、力を得て一日一日を過ごしています。
◆十字架の七言…イエス様は十字架の横木を背負い、ゴルゴタの丘へ登り、手と足に釘を打たれ十字架にお掛かりになられました。十字架の上でイエス様は、七つの言葉を語られました。時系列で、①あなたの息子、あなたの母がいます=愛(ヨハネ19章26-27節)、②彼らをお赦しください=赦し(ルカ23章34節)、③きょう、パラダイスにいます=救い(同43節)、以上が人との関係におけることばです。そして④エリ、エリ、レマ、サバクタニ=絶望(マタイ27章46節)、⑤わたしは渇く=苦痛(ヨハネ19章28節)、⑥完了した=勝利(同28節)、⑦わが霊をゆだねます=信頼(信託)(ルカ23章46節)が、神との関係におけることばです。
◆イエス様の“喝(かつ)”…ただ七つのことばの他に、もう一言、八言目があります。“大声での叫び”です。この最期の絶叫の後、神殿の聖所と至聖所を仕切っている幕(厚みが手のひらの幅)が、上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタイ27章51節)。これにより年に一度、大祭司だけが入ることが許されていた至聖所(神の臨在の場所)への道が、何の制限もなく毎日、すべての人に開かれたのです。父なる愛の神との親密な、永遠の交わりへの道が開かれたのです。そしてイエス様は、“息を引き取られた”のです。一般的にこのことばは「死んだ」ことを意味するのですが、原語は“霊を解き放たれた”です。つまり霊が解放されて(死の束縛から)自由になった状態です。ところで禅宗の僧侶が、お経の最後や、座禅の際に「かーつ!」と言う叫び声を出すのを聞いたことがあるでしょうか? 「喝(かつ)」は、口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形の文字です。イエス様の最後の叫びは、この“喝(かつ)”に似ています。いや、真実の“喝”です。それを聞いたローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」(マルコ15章39節)と告白せずにはいられなかったのです。
◆結び…イエス様は、天国の門を開き、すべての人の帰りを待っておられます。
Posted on 06/10/2023 at 20:48, by matsumoto
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた(詩篇19篇4節) /でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ人への手紙10章18節)
◆はじめに…朝の通勤時、一日の業務の流れを頭の中でシュミレーションしながら車を走らせます。ふと気づくと、やや下向き加減で目の前の道路だけを見ています。そんな私に今日のテキストの詩篇19篇は “顔を上げて天と大空を見よ”と促します。そして業「務をこなすことが仕事ではなく、主の栄光を、業務に取り組む姿を通して顕す(告げる)ことではないですか?」と語りかけます。リビングバイブルは、詩篇19篇5-6節を「太陽はその場所から出て、結婚式の花婿のように晴れ晴れと、また、競技を前にした選手のように、意気揚々と大空を闊歩します」と記しています。このみことばに励まされ、職場に派遣されている使命(ミッション)を再認識し、顔を上げて仕事場へ向かう日々です。
◆沈黙の中(行間)にメッセージがある…今日のテキストの詩篇19篇とローマ書10章は神の啓示について記しています。それは“沈黙のメッセージ”と言えます。それは40代で聴力を失ったベートーベンが、静寂の世界のただ中にありつつ、心に鳴り響く音楽を、五線譜に音符(和音)を並べることで、不朽の名曲を後世に残したように、小さい私たち自身の心に響く福音(神のことば)に信頼して生きる生き様が、後世への遺産(証し)となると信じます。
◆全地に響き渡る声…ところで、詩篇19篇4節の「声」と訳されているヘブル語は、「和音」の語意があります。“心の琴線に触れる”という言い方がありますが、たとえ大きな音や声でなくても、ほんの世界の片隅で蚊の鳴くような声であっても、雑音にかき消されてしまうような弱い音であったとしても、心の琴線に触れるなら、響きとして伝わる。まさに福音がそのような音、声、ハーモニー、シンフォニーだと、パウロはローマ書10章18節で言っているのでしょう。
◆主の声は復活の調べ…「声」と日本語訳されているところは、ヘブル語で“קַוָּ֗ם”と表記します。マルコ5章41節の「タリタ クミ(少女よ、立ち上がれ)」の「クミ(立ち上がれ=復活せよ)」も同じ表記です。つまり“主の声は復活の調べ”と言っても良いでしょう。自然を通して、また、人を通して、そして聖書のみことばを通して、あるいは祈りや夢、黙想を通して、復活の調べなる主の声を聞くとき、私たちは、暗やみ、死の淵から再び立ち上がる活力(復活の力)を得ます。
◆結び…復活の主を信じる者は、誰一人、失望することはありません。