Posted on 02/18/2024 at 09:04, by matsumoto
たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。(イザヤ10章22節a) /(…)たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。(ローマ9章27節b)
◆はじめに…『残りものには福がある』ということわざがあります。人が取り残したものや、最後に残ったものの中には、思いがけず良いものがある、という意味だと辞書に記されてあります。つまり基本的には、残りもののほとんどすべては、何の価値も無いものとレッテルを貼られたものだということです。しかし主は、残りものにこそ目と心を注いでくださる方です。
◆残りの者(レムナント)…今日のテキストの主題は“残りの者”です。一般的に、残された者とは、信仰のあるイスラエルであり、メシアニック・ジュー(イエス様を信じるユダヤ人)、霊のイスラエル(すなわち今のキリスト教会)のように解釈されています。自分の自由意志、主体性によって信仰を持った霊的な人というようなニュアンスが含まれているように感じますが、本当にそうでしょうか? 残りの者とは、むしろ国や地域社会、世間、コミュニティから“取り残された者”ではないでしょうか(イザヤ4章3節、ルツ1章5節他参照)。
◆救われるのは、残された者…私たちは、主の力と愛について多くを学び、体験したにも関わらず主を見捨て、主の約束(「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」「ひとりの助け主を遣わす」)を信じるのではなく、人の助けや物質的な保証に頼ろうとします。私たちの自由意志は、主から離れる方向には働きますが、主に近づく方向には働きません。使徒パウロが「私は、本当にみじめな人間です! だれが救い出してくれるのでしょう!」(ローマ7章24節)と叫んだように、ひとり取り残され、黄泉に落ち込んでいくような逆境に追い込まれます。しかしこの時、御霊が私たちの身体を包み、滅びから救い出してくださいます。
◆救いと滅び…カルヴィンの二重予定説では、人間は初めから救われる人と滅びる人とに神によって予定されていると考えます。しかし神様が人間を滅びに定めたのではなく、死と滅びはアダムとエバの罪によって世に入って来たのです。ですから神様の御心は、その死と滅びから私たちを救い出そう、その一心です。そのためにこの世にイエス様を遣わされ、聖霊様を私たちの内に住まわせてくださったのです。
◆結び…今、取り残されたと感じているあなた、イエス様が救いの御手をあなたに向けて伸ばしておられます。
Posted on 02/11/2024 at 14:28, by matsumoto
(…)異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った(イザヤ9章1-2節) /(…)異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った (マタイ4章15-16節)
◆はじめに…先週の7日の還暦の誕生日、休暇を取って「下村湖人生家」を訪ねました。言わずもがな『次郎物語』の著者です。他に『論語物語』『青年の思索のために』『西行の眼』などの著作があります。どの著作もとても教育的示唆に富んだものです。
◆異邦人のガリラヤ…今日のテキストに“異邦人のガリラヤ”とあります。これはガリラヤ地方にアッシリヤ(首都ニネベ)が侵入して、人種的、宗教的混交が生じ、異邦の民として蔑まれる対象になっていたということです。しかし預言の成就としてイエス様はこの預言の7百年後、ガリラヤ人として生き、ガリラヤで福音を語り、癒し、愛の御業を行なわれました。マタイはこのイザヤ書9章1-2節をイエス様のガリラヤ宣教の開始宣言として引用しました(マタイの福音書4章14-16節)。そしてイエス様は福音宣教の第一声を語り出されました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(同17節) 。
◆ガリラヤから預言者は出ない?…イエス様の宣教は、ガリラヤ地方を中心に展開されました。イエス様は、幼少期から青年期までナザレで生活されていたことはご承知のことと思います。公生涯に入ってから郷里のナザレで宣教したことがありましたが、「この人(あいつ)は大工の息子じゃないか」(マタイ13章55節)と軽蔑され、また「キリストはガリラヤからは出ない」(ヨハネ7章41節)と。そして「ガリラヤから預言者は起こらない」(同52節)とも。ところが、②列王記14章25節に預言者ヨナの出身地がガテ・ヘフェルと記されてあり、ナザレの北東5キロに位置する町です。つまりヨナはガリラヤ出身の預言者です。
◆ヨナのしるし…イエス様は「預言者ヨナのしるし」(マタイ12章39節)と語っていますが、ヨナは主の御顔を避け、主のみこころに不愉快になって怒っています。また弟子のペテロのことを「バルヨナ(=ヨナの息子)」と呼んでいます(マタイ16章17節)。ペテロもガリラヤ生まれの漁師で、気性の激しい愚直な弟子でした。ペテロもイエス様のことばと振る舞いに対して抗議したり、逃げたりしました。
◆結び…ヨナ記の最後は問いかけで締めくくられています。「ニネベを惜しまないでいられようか」と。イエス様が「ましてあなたを惜しまないでいられようか」と語られる声が心に響いて来ないでしょうか。
Posted on 02/04/2024 at 18:28, by matsumoto
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7章14節) /「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる
(הָאֵ-ל עִמָּנוּ)、という意味である。) (マタイ1章23節)
◆はじめに…今週の7日で私は還暦(満六十歳)を迎えます。六十年前の2月7日は、ビートルズが初訪米した日。またその年は「東海道新幹線が開業」し「東京オリンピックが開催」された年です。戦後の経済復興が進み、加速度的に経済が成長していた年と言えます。六十年前、貧しかったけれども社会全体に明るさと活気があったことが当時の写真や映像から伺い知れます。それは、私たちの親世代の人々が自らの生活、そして家族を支えるために必死に働いて来た努力あってのことです。還暦を目前にして、六十年の年月の重みと、第二の人生の重責に圧倒されています。言えるのは“自らの力ではどうにもならない”ということです。
◆福音=インマヌエル(神、私たちと、共に)…さて、前回のイザヤ書6章9-10節は「頑迷預言(がんめいよげん)」と呼ばれ、その呼称の通り、心を迷わせ、頑なにする預言で、理解するのが難しいみことばでした。今日のテキストのイザヤ書7章14節は「インマヌエル預言」と呼ばれています。この聖句は聞き覚えのある個所だと思います。イエス様のご降誕を記念する待降節の際に必ずと言ってよいほど朗読されるからです。その意味で「イエス預言」と言い換えても問題ありません。この「インマヌエル(神、私たちと、共に)」は、「キリスト教の教えの中心を示す言葉、その内容説明である」と言われます。つまり福音の根幹です。
◆神…最初に神が存在し働かれます。ここで神の存在と働きの先行することが表明されています。この神が「私たち」と共にいるという神の約束ゆえに、「私たち」は、その事実を未だ知らない者が知るように呼びかけられている「私たち」として教会の壁を越えて、広い世界に向かって開かれていることを告げています。
◆私たちと…すでに見た通り、インマヌエルはイエスの「名」の言い換えですから「イエス様がわれらと共にいる」ことを表しています。約束の成就として私たちを罪から解放し、罪赦された新しい人として日々新しく創造して下さいます。
◆共に…イエス様の苦難、十字架、復活を通して、神様は私たちをご自分と和解させて下さいました。ゆえに神様はご自身のためでなく「私たちのための神」です。この和解の出来事に包まれて「私たちと共に」イエス様がいて下さいます。
◆結び…イエス様が私たちと共におられ、日々創造され、永遠におられます。
〔毎日曜午前10時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕
Posted on 01/27/2024 at 20:17, by matsumoto
「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』」(イザヤ6章9節) /そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」(ルカ8章10節)
◆はじめに…14日の主日、午前は嬉野(うれしの)キリスト教会の礼拝に出席し、引き続き午後からの「新年コンサート」に参加しました。愛と喜びと平安に満ちた集いでした。みことばと証し、そして音楽(ゴスペルフォーク)を通して主の恵みがシャワーのように注がれ、集まった方々一人ひとりが主と結ばれて、活き活きとしている姿がとても印象的でした。
◆頑迷預言とたとえ話…さて、今日のテキストのイザヤ書6章9-10節は「頑迷預言(がんめいよげん)」と呼ばれます。その呼称の通り、心を迷わせ、頑なにする預言で、理解し難いみことばです。イエス様は、このイザヤの頑迷預言を、ご自身がたとえ話を話す理由として引用しています。頑迷預言と種蒔きのたとえ話に共通項があるからです。それは「自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないため」(イザヤ6章10節)とありますが、ヘブル語の意味するところは「さしあたって今のところは悟らないだろう、知ることはないだろう」ということです。つまり潜在的に能力はあるが、その開花をあえて避けているということになります。心を頑(かたく)なにして耳をふさいでみことばを聞かない状態です。だからたとえ話を語り続ける(種を蒔き続ける)のだと。
◆種と土(福音と心)の関係…イエス様は種蒔きのたとえ話で四種類の土地の状態について語っています。最初の三種類の土地は福音の種が育たない状態について語っています。それはイエス様がこの世のどうしようもない、それこそ“頑迷”な現実を、霊の目でしっかりと見つめておられ、知っておられるということです。しかしこの世にあって、忍耐し、福音の種が生え出て、実を結び幾百倍にもなる「良い地」があるという希望を、たとえ話の最後に語っています。ですから私たちは、ヤコブ書に「農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています」(ヤコブ5章7節)とのみことばもあるように、福音の種をイエス様から託された農夫として、恵みの雨(聖霊の注ぎと浸潤)を待ち望みます。
◆結び…イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫んでおられます。あなたに寄り添い、天の御国に招かんとする切なる叫び声が聞こえるでしょうか?
〔毎日曜午前10時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕
Posted on 01/07/2024 at 09:00, by matsumoto
家を建てる者たちの捨てた(拒否、軽蔑された)石。それが礎の石(ローシュ・ピンナー=隅の頭)になった。(詩篇118篇22節) /あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった』(マルコ12章10節)
◆はじめに…新年、明けましておめでとうございます。皆さんにとって新しい年2024年が主の恵みとあわれみに満ちた年となるようお祈りします。昨年末、親しい友人知人と再会する機会が与えられ、元気な姿と良き証しを聞くことができ、感謝でした。また元日に久しぶりに映画を観にいきました。ディズニー100周年記念映画『ウィッシュ』。知人友人の証しと映画に共通していたことは、さまざまな困難、障害に遭っても希望を持ちつつ、その希望の実現に向け、自らの努力を惜しまなかった、ということです。
◆新年の主題…いとすぎ教会の2024年の年間主題は『朝ごとに新しい』(『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。』(哀歌3章22-23a節/新改訳))です。期せずして、2001年、私たちの最初の赴任地、壱岐教会の主題と同じになりました。2024年は年明けから地震や航空機事故、火災等、波乱の幕開けとなっていますが、“新しい”ご計画をお持ちの創造の主、恵みの主、あわれみの主に信頼して共に歩んで行きたいと願います。
◆礎の石(隅の頭)…ところでユダヤ暦の新年は“ローシュ・ハシャナー”(年の頭)と呼ばれ、「第7月の第一日(太陽暦で9-10月)」(レビ記23章24節)です。そして贖罪の日(10日)、仮庵の祭り(15日)と続き、罪の赦しと安息の月です。今日のテキストにある「礎の石」はヘブル語で“ローシュ・ピンナー”で、「隅の頭」です。直訳すると「家を建てる者たちの軽蔑(拒否)した石が、隅の頭になった」となります。聖霊の導きと信じますが、この詩篇118篇22節のテキストを通して「良きサマリヤ人のたとえ」を観てみると、「隅の頭になった=隣人となった」という構図がくっきりと見えてきます。強盗に襲われ瀕死の状態になっているにもかかわらず、宗教家から拒否されたユダヤ人と、正統的ユダヤ人から軽蔑され、ユダヤ人を拒否していたサマリヤ人が出会うことによって、まったく予期せず展開していった前代未聞のまったく新しい隣人となるストーリーです。それは中心から離れたところで展開される分離された関係が結び合わされる和解の物語です。
◆結び…私たちにイエス様は語りかけられます。「あなたの置かれている世界の片隅でこそ、愛が芽生える」と。