Posted on 01/24/2016 at 05:07, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『聖地巡礼旅行(その一)』(ヨベルの年 第20週)(2016.1.24)

 

イエスはオリーブ山に行かれた。(ヨハネ福音書8章1節)

  • はじめに…  1月14-20日にかけて、聖地巡礼旅行(イスラエル)に出かけ、全ての旅程を主が守ってくださり、恵みのうちに、いとすぎ教会に帰って来ました。主に感謝します。またその間、祈りつつ支えてくださった皆様に感謝します。
  • 要所に“いとすぎ”が…最初に訪れたのは「オリーブ山」で、そこからエルサレム(シオンの丘)を展望しました。西壁(嘆きの壁)に隣接する南の壁の手前に“いとすぎ”を見ることができます。その後、イエス様の歩かれた地を巡りましたが、その主要な場所(たとえば鶏鳴教会、羊飼いの野の教会、ペテロの家など)には必ずと言って良いほど、“いとすぎ”がありました。主が教会の名を“いとすぎ”にするようにおっしゃったことの御心を、またひとつ深く知ることができました。
  • 旧約と新約を繋げる…ツアーガイドは榊原さん(通称バラさん)。28歳で単身イスラエルへ。イスラエル在住45年、ヘブライ大学で学び、観光ガイド歴40年の大ベテラン。イスラエルの地でユダヤ人、アラブ人とともに暮らし、体丸ごとで聖書のみことばを体験されており、旧約の歴史的背景をしっかり踏まえてイエス様のみことばをユーモアたっぷりに解き明かしてくださいました。
  • 距離感覚…また、現地を自分の目で見て、自分の足で歩くことで、場所間の距離感覚を体感しました。聖書の記事を字面ではなく、身体感覚を働かせて読み取ることができるようになったことは、何にも代え難い“宝物”です。
  • 荒天の地中海に虹…イスラエルに到着してずっと晴天に恵まれました。しかし帰国の前日と最終日は一転して荒天に。カナ、ナザレは大雨に。そしてユーラクロンのように荒れ狂う地中海(カイザリヤ、ヨッパ)。ところがベングリオン空港へ向かおうとする頃には雲の切れ目に虹が掛かり、希望のメッセージを天地創造の主が届けてくださいました。
  • 結び…聖書のみことばを体験させてくださる主に栄光をお帰えしします。

 

Posted on 01/10/2016 at 04:09, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ニワトリガ ウタウ』(ヨベルの年 第18週)(2016.1.10)

 

それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。(ヨハネ福音書18章27節)

ペトロスワ フタタビ ナイトユフ。 タチマチニ ニワトリガ ウタウ(ギュツラフ訳)

  • はじめに…今週の木曜から聖地巡礼旅行となります。今、現地は雨季で天候の予測が難しく、また周辺地域では紛争が絶えません。その現実の中で、歴史に働かれる主イエス様の息吹に触れることができるよう、お祈りに覚えて支えて下されば幸いです。
  • みな、つまずく… さて、最後の晩餐の後、イエス様と弟子たちは祈るためにゲッセマネの園(オリーブ山の麓)に行かれました。そこでイエス様は弟子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます」(マタイ26章31節)と語られました。
  • 決してつまずきません…ペテロは「決してつまずきません」(同33節)と豪語しました。それに対してイエス様が、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(同34節)と語られると、ペテロはすぐさま言葉を重ねて「知らないなどとは決して申しません」(同35節)と自己主張しました。
  • 肉体は弱い…そのやり取りの後、イエス様はひとり血の汗を流して祈られました。その間、弟子たちには目を覚ましているように指示されましたが、結局、弟子たちは眠りこけ…。その弟子たちの様子を見て、「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(同41節)と語られました。
  • そんな人は知らない…そこへユダが、剣や棒を持った群衆と一緒にやって来て、イエス様は捕らえられ、大祭司カヤパの家へ連行されました。そのとき、ペテロは「遠くからイエスのあとをつけながら」(同58節) 大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようとしました。もうこの時点で及び腰になっています。そこで女中らから「あなた、ナザレのイエスといっしょでしたね」と問われると、三度「そんな人、知らない」と誓い始めると、鶏が鳴いた(ニワトリガ ウタウ)のです。イエス様の「あなたは三度、わたしを知らないと言う」という言葉を思い出し、ペテロは激しく泣きました。その記念として“鶏鳴教会”が建てられています。
  • 結び…つまずく者、弱い者、裏切り者の私たちを、いのちの限り大切にしてくださり、再び立ち上がらせて下さる主に栄光がありますように。
Posted on 01/03/2016 at 03:32, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『最後の晩餐』(ヨベルの年 第17週)(2016.1.3)

 

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

(マタイ福音書26章28節)

  • はじめに…元旦は、私たち二人だけの礼拝かと思いきや、大人数(と言っても5人ですが)で礼拝を捧げられ、感謝でした。2016年も、霊とまことを尽くした礼拝を毎週捧げられるよう、願っています。
  • 香油を注ぐマリヤ…前回(年末)は、山上の垂訓を、上から目線ではなく座して語られたイエス様を覚えました。今日は、十字架を前にして最後の晩餐のときを弟子たちと過ごされたイエス様を覚えたいと思います。最後の晩餐の6日前、イエス様はベタニヤのラザロ・マリヤ・マルタの家に滞在していました。そこでマリヤはイエス様に、おもてなしとラザロを生き返らせて頂いた感謝を込めて、ナルドの香油3百グラムを注ぎました。当時の1年間分の生活費に相当する高価なものでした。
  • 感謝に憤慨する弟子たち…この純粋なマリヤの行為に対してユダはじめ弟子たちは憤慨して、「高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」(マタイ26章9節)と非難しました。これに対してイエス様は、マリヤが香油を注いだのは「わたしの埋葬の準備」(同12節)と香油注ぎの真意(みこころ)を明らかにされました。弟子たちの(経済合理性から来る)憤りが的外れであることと、マリヤの感謝の行為が、さらに深い主の愛のご計画に用いられることを明らかにされたのでした。人間のモノの見方、行為は、非常に偏っており、また、限定的です。
  • 十字架を前にして祝福し感謝を捧げる主…それに対して主の御思いと御意は、一途であり、無限の可能性に開かれています。晩餐の席で、しかも翌日には十字架の苦しみと死が待っているにも関わらず、弟子たちを祝福し、父なる神に感謝を捧げました。罪の赦しは、口先三寸で出来るものではなく、自ら罪人の身代わりとなって血を流す決断が必要不可欠です。イエス様は、私たち一人ひとりのために身代わりとなって血を流してくださったのです。
  • 結び…主から頂いたいのちです。新しい1年、皆さんお一人ひとりに託された主の使命をまっとうされるよう、祝福して祈ります。
Posted on 01/01/2016 at 10:35, by matsumoto

2016年元旦礼拝メッセージ要約『野の草として』(2016.1.1)

本日1月1日午後2時から元旦礼拝を執り行います。どなたでもお気軽にお越し下さい。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。(マタイ福音書6章30節)

    • はじめに…主の年2016年、明けましておめでとうございます。新しい年、主がいつくしみと恵みとで、初めから終わりまで皆さんの上に満ち溢れる年となるよう、心よりお祈りいたしします。
    • テーマは…さて、今年のいとすぎ教会の主題は、『野の草として-置かれたその場所で』とさせて頂きます。昨年末の出会いと導きのなかで、主から示された主題です。①シオンの丘の上教会のS先生のご主人とのお交わり、②Iさんとのお交わり、③聖地巡礼に導かれるなかで、示されたものです。
  • 高嶺の途上で…Sさんの趣味は登山だそうです。山頂に立つ、その達成感は何ものにも代えられない感動だそうです。その山頂までの途上、いろいろな高山植物を目にするそうですが、その健気さ、美しさに出会うことは、山頂に到達することに勝るとも劣らない体験だとのことです。
  • 病のなかで…Iさんは、十数年前から難病を患い、ほとんどベッドに寝たきりの状態です。けれどもその病を嘆くことなく、反対に「病を通して主を証する機会を神様が与えて下さっておられることが恵みで、感謝です」とおっしゃっておられます。
  • 西壁の草として…今年1月、もうまもなくですが、主が私を聖地イスラエルに招いて下さっています。エルサレム神殿が紀元60年に破壊されましが、その城壁の一部がそのまま残存しています。「西の壁」または「嘆きの壁」と言われているものです。その石積みの壁の隙間に“ツェロフハデ”という、つる草が生えています。ツェロフハデは環境に左右されない生命力の強い植物です。タルムードに、地球が滅んでも最後まで生き延びる被造物のひとつとしてあげられているほどです。
  • 結び…「置かれた場所で咲きなさい」とノートルダム清心学園の渡辺和子シスター(88歳)は言います。2016年、置かれた場所で咲く野の草として生き、主に信頼し、出会う一人ひとりの隣人となっていく私たちでありますように。
Posted on 12/27/2015 at 04:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『山上の垂訓』(ヨベルの年 第16週)(2015.12.17)

 

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。(マタイ福音書5章1-2節)

    • はじめに…クリスマスが過ぎ、いよいよ主の年2016年に向けて、歴史の“聖なる扉”が開かれようとしています。主の導きの中、来年早々に聖地巡礼の旅に出かけることになった訳ですが、出発までの3回の主日、その訪問地にちなんだ御言葉からともに聴きたいと願っています。
    • 観光ではなく信仰… かつて隠れキリシタンについて調べていたことがあるのですが、その取材のために長崎の「日本二十六聖人記念館」に出かけました。そこで結城了悟館長(当時)から言われた言葉“信仰と観光は違います”。それ以来、この言葉は私の座右の銘となっています。ですから今回の旅行は観光ではなく、主の御言葉を聴く信仰の歩み出しなのです。
    • 座して語られたイエス様…訪問地のひとつに「山上の垂訓教会」があります。イエス様が山上の垂訓を語られたガリラヤ湖畔の小高い丘に建てられた教会です。ここにイエス様が座られて、口を開かれたのです。ひと昔前の日本の家庭でも、父親が家族に大切な話をする際に、座って話をしたように、イエス様も座って話し出されたのです。
    • 開口一番…開口一番、「心の貧しい者は幸いです」(「心底貧しい人たちは神からの力がある」・本田哲郎訳)(マタイ福音書5章3節)と語られました。〈心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人、お金もない、地位もない、体も弱い、知識もない。己にたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たち〉(三浦綾子著『新約聖書入門』より引用)です。そして「悲しむ者は幸い、柔和な人は幸い…」と、イエス様は“八福の教え”を、絶対的な権威をもって語られました。語られるだけではなく、主は、その語った真実を生き抜かれました。座(坐)して語られる者の責任を完結されました。罪を犯さざるを得ない私たちと連座され、私たちの罪を負い、身代わりとなって十字架の裁きを受けられたのです。
  • 結び…残すところ2015年も今日を含めて5日。一日いちにち、主の語られる御言葉に耳を傾け、御言葉を生きる皆さんであるよう、祝福して祈ります。

 

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