Archive for 1月, 2019

Posted on 01/20/2019 at 18:22, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしの教会を建てます』(イエス・キリストの生涯 その50)(2019.1.20)

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 (マタイによる福音書16章18節)


  • はじめに…昨年12月頃、ヨルダンの“ペトラ遺跡”で、山から土石流が流れ出す災害が起きました。ペトラ(ギリシャ語で「大きな岩」の意)は、ヘブル語名では“ボツラ”です。ボツラはイザヤ書63章1節に出てきますが、イザヤによって語られた主の再臨の預言の地です。今日の聖書の箇所に「ピリポ・カイザリヤ」という地名が出てきますが、実はこのペトラ遺跡の近くで、またボツラ周辺を指します。主の再臨の預言の地で、イエス様はペテロに語られました。
  • ペテロとペトラ…イエス様をメシアとして認めないユダヤ人への伝道から弟子訓練に移行されたイエス様。そこで「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」(マタイ福音書16章15節)と弟子たちに尋ねます。シモン・ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」(同16節)と答えます。彼が聖霊によって告白したことをイエス様はご存知でした。そしてイエス様は「あなたはペテロです」(同18節)と言われました。ピリポ・カイザリヤはヘルモン山のふもとにあり、小川が流れています。川底には小石(=ギリシャ語で「ペテロ」)が。イエス様が「この岩の上にわたしの教会(集会)を建てます」(同上)と言われた「岩」はペテロ(小石)ではなくペトラ(大きな岩)です。
  • 岩の上に建つ教会(集会)…ここで言う「教会」とは建物の教会ではなく、私たち一人ひとりのことです。小石であるペテロ。しかし聖霊によって霊の目が開かれ、イエス様をメシアと告白しました。その告白を受け入れ、包み、覆ってくださるイエス様の愛の姿。それがまさにペトラです。イエス様の十字架の贖い、その確かな愛を受け取り告白した時(声に出して、あるいは心の内で)、私たちが教会となるのです。一時的な建物の教会ではなく、聖霊によって御国を受け継ぐ者として保証されている教会(エペソ1章15-16節参照)、それが私たちです。地上にあっても天上にあっても私たちはイエス様の教会です。
  • 結び…私たち一人ひとりが教会です。そして「わたしの教会」と声を掛けてくださっています。ハデス(=滅び、死)の門もこれに打ち勝てません。
Posted on 01/13/2019 at 19:34, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『安息といのちのまなざし』(イエス・キリストの生涯 その48)(2019.1.13)

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。(マタイによる福音書12章15-17節)

  • はじめに…デイサービスの利用者さんを送迎車で送迎する時間は、とても有意義な時間です。人生の先輩たちが体験し学んだ人生の知恵に溢れている話を聞けるからです。元看護師だった方の話。「主人の様態が急変し、救急車を呼んで病院に救急搬送したときのこと。病院から自宅へ帰るためタクシーを呼んだとき、そのタクシーの運転手がさっと足元に新聞紙を敷いてくれた。というのは、急いでいたので靴も履かず裸足だった。ありがたかった。小さいことだけれど、こういうことの積み重ねが大事だと思った。」その話を聞いて、マザーテレサも言ったように“どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか”それが大切だということを改めて考えさせられました。
  • みないやした…安息日論争の後、イエス様はガリラヤ湖畔に退かれました。しかし、イエス様の教え、いやしの噂を聞いた人々、なかでも病気に悩む人々が、大挙としてイエス様のところへ押し寄せてきました。イエス様は、それらの人々を“みないやし”(マタイ12章15節)とあるように、見て見ぬふりをしたり、適当にあしらうようなことはされませんでした。疲れも覚えておられたことでしょう。しかし心を砕かれ、最善を尽くされました。
  • まなざしの方向…先週の日曜日、NHKの番組で「サグラダ・ファミリア」の特集番組がありました。サグラダ・ファミリアは建築家ガウディの設計で、建築からすでに130年を経て、今もなお建築中です。2018年の秋からその会堂の中心部分に“イエスの塔”の建築が始まったそうです。その芸術工房監督を日本人の外尾悦郎氏が担当しています。その外尾氏が次のように語っています。「何も無くなってしまった時、絶望というものがあった。絶望の中にいて、やめるしかないと思ってた。でも、だとしたら、ガウディはどこを見てるんだろう? と、ふと思ったわけ。ガウディが見ている方向を見てみようかなって。それを考え始めたら、思いもよらずスーッとガウディが自分の中に入った」
  • 結び…イエス様の見つめるまなざしの方向に思いを合わせて歩む一歩一歩でありますように。そこに安息といのちに満たされた世界のはじまりがあります。
Posted on 01/08/2019 at 19:31, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『イエス様に包まれて生きる』(2019.1.6)

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです(エペソ人への手紙1章14節)

  • はじめに…主の年2019年の最初の礼拝です。平穏に年が暮れて行ったと思いきや、激動を予感させられる幕開けとなりました。しっかりと腰を据えて掛からなければ、荒波に呑み込まれてしまいそうな、そんな状況が世界を見渡しても、また身近な生活環境にもあります。しかし、やみくもに悲観したり不安に思う必要はありません。私たちには決して揺らぐことのない主イエス様がおられます。
  • 多様性へのまなざし…エペソ人への手紙は、パウロがローマの獄中に捕えられているときに、エペソを含む小アジアの奥地に点在する教会、それはユダヤ人よりむしろ異邦人の構成員が多かった教会に対する回覧的な手紙としてパウロが書いたものであると考えられています。種々雑多、毛色の違う人々がともに一つの集まりを営むゆえに、色々な問題もあったようです。そのなかで「教会とは何か」「御国とは何か」ということをつまびらかに著したのが、この「エペソ人への手紙」ということができます。特徴的なことは、その出発点が“神の計画”というところから始まっていることです。それから信徒ひとりひとりの信仰の歩み、交わり、生活の仕方の勧めへと展開しています。神の計画→教会→信仰者の生活という構造になっています。
  • 恵みと平安…「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(エペソ1章2節)と手紙のあいさつ文が、認(したた)められています。普通のギリシヤ式の書き出しは「恵み」(カリス=喜び)という言葉で始まります。そこにパウロは「平安」を加えているのです。これはユダヤ人たちがお互いにあいさつを交わす際の「シャローム」をギリシヤ語に訳したものです。つまりパウロは「恵みと平安」という、ふたつの違った文化的背景を含むことばを並べることで、ユダヤ人と異邦人という隔ての壁を乗り越えているのです。そしてパウロは、父なる神が、異質な者同士をイエス様の内に包み込み、祝福してくださっていることを讃えているのです。この奥義を啓示するのが贖いの聖霊の働きです。
  • 結び…主の年2019年、混沌とした世界のなかで、イエス様に包まれている確信をもって生き、恵みと平安を感謝するお互いであるよう、お祈りします。
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