Archive for 3月, 2024

Posted on 03/24/2024 at 16:57, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『イエス様は支え照らす』(新約に引用されている旧約 その82)(2024.3.24)

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 (イザヤ42章3節) /彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導きまでは。(マタイ12章20節)

◆はじめに…先週の水曜日、出張で南九州地方連合の年次総会に陪席し、恵愛園のアピールをしてきました。私の役割は、「障害」者の方々が心を込めて作った、ぞうきん、ドレッシングの商品のおすすめでした。持って行った商品はほぼ完売でしたので、主のあわれみと手に取ってくださった方々の優しさに感謝しました。

◆傷んだ葦を折らず、燻る燈心を消さない…今日のテキストの主題は「主のしもべの召命」です。そのしもべの使命は「いたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12章20節)です。葦は、新芽は食用として、茎はフェンス、風よけ、間仕切り、屋根、籠等々。またトーラーの巻物を書くためのペンだったり、オーボエやクラリネットなどの楽器のリードとして使用され、多様な用途があります。しかし、傷んだ(抑圧された)葦は、価値がなく、役に立たない事の代名詞になっています。また、燈心は亜麻でできたランプの芯で、光を発し、家の中や周囲を明るく照らし出しますが、ランプの油が切れかかると燈心が焼けて、黒い煤と匂いを発生し、燻って、役目を果たせなくなってしまいます。

◆金の燭台…約6年前に幕屋について学びました。聖所の中に金の燭台(メノラー)が置かれ、その光によって聖所内が明るく照らされ、祭司が主に近づき、祈りと感謝と和解のささげものの奉仕が行なえます。もし、メノラーの光が無ければ、聖所は真っ暗闇になり、奉仕はおろか、主に近づくことが出来なくなってしまいます。イザヤもマタイも人々の霊的状況が、まさにそれと同様の状態になっている、そう指摘しているのでしょう。いたんだ葦、くすぶる燈心になっていると。

◆主の僕なるイエス様…しかし、イエス様は、いたんだ葦、くすぶる燈心を折らない、消さないと預言されています。それが主のしもべなるイエス様の使命であり、私たちの福音です。つまりイエス様がメノラーの支柱となり、六つの枝(葦=カーネ)、すなわち不完全な私たちを支えてくださり、聖霊なる油を注いでくださり、創造の主に近づけ、親密な交わりの中に入れてくださいます

◆結び…イエス様は片手のなえた人(抑圧され疎外された人)の手を握り、真っ暗な穴から引き上げてくださるように、私たちの手を握り、支え、希望の光で道を照らし歩みを確かにしてくださいます。

 

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

Posted on 03/17/2024 at 19:54, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『荒野に響くみことば』(新約に引用されている旧約 その81)(2024.3.17)

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」 (イザヤ40章3節) /彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1章23節)

◆はじめに…今日の聖書テキストの箇所を、キング牧師は「私には夢がある」(I Have a Dream)という演説の中で引用しています。以前、いとすぎ教会開拓当初の礼拝に参加していた故ラーキンス久枝さんは、そのキング牧師の演説を直接聞いて、感動したと語っていました。そして私に「キング牧師のようなメッセージを語る人になってください」と言われました。今も後も、彼の“靴の紐を解くほどに及ばない”小さき者ですが、もし許されるなら、いつの日かそんなメッセージを語らせて頂ければと、それこそ夢は持っていようと思います。

◆荒野で叫ぶ声…今日のテキストの主題は「荒野で叫ぶ声」です。“荒野”は、高い山と深い谷、そして曲がりくねった道なき道、それは生命を拒絶する、あるいは、すべてを飲み込むような、困難で危険な場所でありその象徴です。そしてそれはまた、人々の内の荒んだ心の状態と言えます。その人々の生きる世のただ中で叫ぶ者だと、バプテスマのヨハネは自分自身を表しました。『主の道をまっすぐにせよ(整えよ)』と語り、悔い改め(生き直し)のバプテスマを伝えました。

◆救いに反して救いを…道をまっすぐにするために、山を崩し、谷を埋め、平らにする必要があります。心の中のでこぼこ、すなわち優越感、劣等感、差別意識、偏見、あるいは誤った正義感や知識を自覚し、それらを取り除く必要があります。別の言い方をすれば、今、自分が常識(あるいは救い)だと信じて疑わないことを手放す必要があります。今ある救い(だと思っているもの)を手放して真の救いに信頼する必要があります。

◆主の御声…ダビテは毎朝、目覚めてから「あなたの恵みを聞かせてください。行くべき道を教えてください。敵から救い出してください」(詩篇143篇8-9節)と主を仰ぎ、祈りました。同様に私たちも毎朝、イエス様を真っ直ぐ見て、イエス様に信頼して荒野の中を一歩踏み出したいと思います。イエス様を真っ直ぐ見るとき、主の御声が荒野に聞こえてきます

◆結び…「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を備え、荒地に川を設ける」(イザヤ書43章19節)

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Posted on 03/10/2024 at 17:20, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『真のコルバン』(新約に引用されている旧約 その80)(2024.3.10)

(…)「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている」 (イザヤ29章13節) /「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠くはなれている」(マルコ7章6節)

◆はじめに…昨日、私の勤めている恵愛園に入所している方の“朗読ボランティア”に出かけてきました。朗読本は、Iさんからリクエストのあった『苦界浄土(くがいじょうど)-わが水俣病』(石牟礼道子著)。現在Iさんは目が不自由で自身で読書することが困難なため、いつか『苦界浄土』を誰かに読んでほしいと願っていたそうです。昨日、朗読を聞いてIさんが「嬉しいです。久しぶりに読書の喜びを感じました」とおっしゃいました。その感想を聞いて私自身も、心が少し近づいたように感じ嬉しく思いました。

◆心はわたしから遠く…今日のテキストの主題は「心はわたしから遠く離れている」です。主は、ご自身が愛し、創造し、選ばれた民の心が、主ご自身から遠く離れていることを深く悲しまれました。その口で祈り、賛美するも、主の御心に届かない空言(そらごと)になっていると。それは神様を脇に置いての礼拝です。イエス様は、このイザヤの預言を引用して、パリサイ人と律法学者に向けて語られました。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いている」と。偽善者とは役者という意味です。主に対して空言を語る者は、人に対して神のことばを空文(=無効、破棄)にすると、イエス様が語られます(マルコ7章13節)。

◆コルバン…その一例として「父母を敬え」との律法に対して「“わたしがあなたを扶養すべき分は、ぜんぶコルバン、すなわち神への供えものにする”と言うなら、その人は父または母に対する義務を果たさなくてもいい」(マルコ7章11-12節/本田訳)と。つまり「神を敬う」ほうが最優先なのだから「父母を敬う」のは後回しで構わないというような人の理屈(口伝律法)が、まかり通っているとイエス様は指摘しました。これは「洗わない手でパンを食べる」ことを詰問したパリサイ人に対する問いかけにもなっています。人の理屈で神のことばを反故にする者に対してイザヤは「あなたがたは、物をさかさに考えている」(イザヤ29章16節)と語っています。“コルバン”の原意は“近づける”です。修復不可能なまでに遠ざかり、距離が出来てしまった神と人、人と人を再び近づける、真のコルバンはイエス様です。

◆結び…真のコルバンなるイエス様は今日も「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改め(向き直し)て福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と語られます。

 

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Posted on 03/03/2024 at 19:48, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『復活がなければ』(新約に引用されている旧約 その79)(2024.3.3)

(…)「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と言っている(イザヤ22章13節) /もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです(①コリント15章32節)

◆はじめに…早めに就寝するように気がけているのですが、たいてい夜中1時くらいに目が覚めます。夢なのか自ら意識してなのか、いつの間にか頭の中が仕事のことでフル回転しているのです。起きて炭酸水を一口飲んで、意識を主に向けて祈り、再び床に就く毎日です。仕事と祈りの闘いです。しばらく格闘した後、愛する者に眠りと安息を与えてくださる主が勝利されます。祈り→安息・眠り→仕事(活動)、その流れの順序が大切です。快楽、放縦、刹那、羅針盤のない船の人生か、それとも喜び、自制、永遠、聖霊の導きの人生かの分水嶺になります。

◆明日(いつか)は死ぬのだから…コリント教会の信徒の中に、「死者の復活はない」(①コリント15章12節)と主張する者が多々あったようです。コリントはギリシャですからある意味、当然と言えるかも知れません。なぜならギリシャ人にとって霊肉二元論が常識であり、身体(肉)は朽ちるが“霊魂は不滅”と信じられていたからです。一方、イザヤが預言活動をしていた時代、イスラエルの民は、そもそも死後はすべて無に帰して神との関係も消失してしまうと考えていました(詩篇6篇5節他)。どちらにしても「死んだら身体を使って楽しみ満足を得られなくなってしまうのだから今、やりたいことをやって楽しもう」と。

◆ギルガメシュ叙事詩…今日のイザヤのテキストに引用されている「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」という古代のことわざは、『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれる世界最古の物語の一節から採られていると思われます。この中には「ノアの洪水」物語の原型といわれるものも含まれ、永遠の生命の探求の物語です。

◆死者の復活…コリント教会には死者の復活はないと主張する一派があり、「死者はどのようによみがえるのか?」と問います。その問いに対してパウロは、土に蒔かれた種が死に、その後、形を変えて生命に体を備えて成長させられるように、人の復活も同様で、肉体が死んで朽ち果てるも、主の御心のままに新なる生命が与えられ、身体(御霊のからだ)を与えられるのだと。イザヤも死者の復活を預言しています(イザヤ25章8節、26章19節)。

◆結び…復活はこの地上の人生にあってはあらゆる困難に対する“抵抗力”“回復力”“復元力”です。その復活の力を私たちに賜るために、イエス様は十字架に掛かられ、死を死なれ、復活され、罪を滅ぼし、死に勝利されたのです。

 

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