Posted on 12/20/2015 at 04:00, by matsumoto
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2章7節)
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- はじめに…カトリックでは、毎年12月8日を、マリアの「無原罪の御宿り」の祝日として記念しています。また今年は特別に、この日から来年にかけて「いつくしみの特別聖年」が開年されました。ユダヤ暦では9月からヨベルの年、すなわち解放の年として幕が開けています。今年のクリスマス(主の誕生)から始まる歴史は、いつくしみと解放が、より重要なテーマとなるでしょう。
- マリアのキャンドル…今日はアドベント第四主日です。4本目のキャンドルに火が灯りましたが、これは「マリアのキャンドル」です。マリアが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。
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- ナザレからベツレヘムへ…皇帝アウグストから「住民登録をせよ」という勅令が出され、その登録のためヨセフとマリアは、、ナザレからベツレヘムまでの約160キロの道のりを歩いて旅しました(一日40キロ歩いたと仮定するとちょうど今日、ナザレから旅立った)。人の思惑と神のご計画は横糸と縦糸としてしっかり結び合わされています。救い主がベツレヘムから出ることは、すでに主のご計画として預言されていました(ミカ書5章2節参照)。またマリア自身も御使いガブリエルから直接、その知らせを受けていました(ルカ福音書1章28節参照)。みことばが長旅に耐える力の源だったことでしょう。
- 家畜小屋…足を引きずるようにしてベツレヘムに到着したものの、宿屋には彼らの泊まる場所はなく、やっと腰を下ろすことができたのは家畜小屋でした。日本の歌百選のひとつでもある「埴生の宿」(埴生の宿も わが宿…)という唱歌がありますが、その埴生の宿=土間にじかに筵(むしろ)を敷いて寝る粘土で作った家=が、わが家であって、宝石を散りばめたような素晴らしいところもうらやましくない…と歌っています。家畜小屋、埴生の宿で、救い主イエス様はお生まれになられました。家畜小屋。世から見れば何の価値も無いような所に、否、そこにこそイエス様が真っ先に来てくださいます。
- 結び…皆さんの内に、主イエス様が来てくださることを期待し、祈ります。
Posted on 12/13/2015 at 03:28, by matsumoto
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節)
- はじめに…国際宇宙ステーションに約5カ月間滞在していた油井亀美也(ゆい きみや)さんが11日夜、ロシア宇宙船ソユーズで、カザフスタンの草原地帯に無事帰還し、駆けつけた関係者に「ただいま。体調は大丈夫です。重力を感じます。宇宙もすばらしいけれど、地球もすばらしい。冷たい風が心地よい。ツイッターをフォローしている人がたくさんいるので、発信していきたい」
- バプテスマのヨハネのキャンドル…今日は待降節(アドベント)第三主日です。3本目のキャンドルに火が灯りました。この3本目のキャンドルは「バプテスマのヨハネのキャンドル」で、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しし、悔い改めを迫ったバプテスマのヨハネを象徴しています。
- 荒野の声…バプテスマのヨハネは、主イエス様の親類(ルカ1章36節参照)で、イエス様より半年早く生まれています(ルカ1章26節参照)。ヨハネの働きは、その父ザカリヤを通して預言されています(ルカ1章76-79節参照)。その預言通りにヨハネは、自分自身のことを「私はキリストではありません」「エリヤでもありません」「(モーセのような)預言者でもありません」と告げた後、「『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」と告白しました(ヨハネ1章20-23節参照)。“声”そのものは、ある内容を伝えた瞬間に、消えて無くなります。自分の役割を“声”と断言するヨハネには「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3章30節)という、潔さがあります。
- 主告白…ヨハネが最初に主イエス様を人々に証ししたことばは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)でした。地球に帰還した油井さんは「宇宙もすばらしいけれど、地球もすばらしい」と言いましたが、私たちは「宇宙を創造し、地球を保っておられる主イエス様はすばらしい」という告白する声です。
- 結び… 今週、「主はすばらしい」と告白する皆さん一人ひとりであるよう、祝福して祈ります。
Posted on 12/06/2015 at 03:55, by matsumoto
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ福音書1章22-23節)
- はじめに…先週は、横浜の「シオンの丘の上教会」の皆さんとのお交わり、その後、Mさん御夫妻とのお交わりと、主にあるお交わりの機会に恵まれた一週間でした。
- 預言者のキャンドル…今日は待降節(アドベント)第二主日です。2本目のキャンドルに火が灯りました。この2本目のキャンドルは「預言者のキャンドル」で、偉大なる祭司であり、預言者であり、王である来るべき救い主イエス様を預言したイスラエルの預言者たちを象徴します。
- 信じきる…みことば(預言)は必ず成就します。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、幸いです(ルカ1章45節参照)。マリヤもヨセフも、御使いが伝えたみことばを信じきりました。簡単なことではありませんでした。マリヤにしてみればイエス様を懐妊することは、身に覚えのないことであり、ヨセフにとっては、マリヤの不貞を疑わざるを得ない出来事でした。
- アドベント=神の冒険…ヨセフとマリヤにとって、絶体絶命の危機でした。ヨセフが、この事態を公の裁判に訴える(世の霊)
- hives. online. ことも出来ました。しかしヨセフは、そうせず密かに離縁しようと決心(人の霊)しました(マタイ1章19節)。そのヨセフに、夢で御使いが現れ「マリヤを迎えなさい」(同20節)と語り、そのとおりにマリヤを妻として迎え入れました(神の霊)。アドベントはアドベンチャー(冒険)の意味を含んでいます。冒険は危険に満ちています。イエス様を私たちがこころの内に迎え入れることは、父なる神の命懸けの冒険であり、同時に私たち自身の冒険です。私たちが人生の危機のただ中で、みことばを信じきれるのは、生きて働かれるインマヌエルの主が、共におられるからです。
- 結び…アドベント第2週、皆さんお一人ひとり、インマヌエルの主をこころにお迎えして、主と共に歩まれますよう、祝福して祈ります。
Posted on 11/29/2015 at 04:10, by matsumoto
彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)
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- はじめに…仕事帰りに夜空を見上げることが多いのですが、この時期は、星が一段と美しく輝いて見えます。オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座…。
- アブラハムのキャンドル…本主日から待降節(アドベント)です。アドベント・クランツに4本(5本)のローソクを立てて、主日毎に1本ずつ明かりを灯していきます。今日はその1本目で「アブラハムのキャンドル」です。主の約束を信じて信仰の歩みを始めた“信仰の父”ゆえに、約束の成就としてのイエス様の誕生へと引き継がれてきたことを想起するキャンドルです。
- 主(みことば)に信頼する…主のことばに従ってアブラハムは故郷を旅立ちました。その旅路は平穏なものではありませんでした。災害(ききん)があり、争いがありました。私たちの住む世界、そして人生も同じです。一歩先、何が起こるか分かりません。ですから人は、何かに頼ろうとします。強い人なら自分の力に頼るでしょう。他の人は、お金であったり、知り合いであったり、情報であったり、あるいは占いであったり…。アブラハムは、主のみことばに信頼しました。「天を見上げ、星を数えてみなさい」「恐れるな」(創世記15章1、5節)
- 恐れから畏れへ…主イエス様が誕生されたのは“飼葉おけ”(家畜のエサ入れ)のなかでした。最初にそのことの知らせを聞いたのは、野宿をしながら夜番をしていた羊飼いたちでした。時折、夜空の星を眺めながら、羊の群れを見守っていたところに主の使いが来て、主の栄光が回りを照らし、「恐れることはありません」「あなたがたのために、救い主が生まれた」と語りました(ルカ2章8-10節)。羊飼いたちは、夜や、夜に襲いかかる獣にではなく、主の栄光に覆われ、恐れたのです。その羊飼いたちに天使が「恐れることはありません」「救い主がお生まれになった」と告げたのです。インマヌエル(主われらと共に)の誕生によって、恐れは畏れに変わり、賛美に変わったのです。
- 結び…インマヌエルの主が、皆さんの心の内に宿られ、恐れが畏れと賛美に変えられるアドベントとなるよう、祝福して祈ります。
Posted on 11/22/2015 at 04:12, by matsumoto
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」(マタイ21章42節)
- はじめに…思いがけず、いとすぎ教会の礼拝堂の大きさにピッタリのクリスマスツリーを、友人が持って来てくれました。捨てる寸前だったものを、ふと私たちの教会のことを思い出してのことだったそうです。
- 何で私だけ…人生すべて思い通り、計画通りということは皆無と言っても良いのではないでしょうか。目の前の現実だけを見ると「何で私(だけ)が、こんな苦しみに遭わなければならないのか」とか「いつまでこんなことが続くのか」と思うような出来事が起こります。そして腹を立てたり、逆に虚しくなったりします。自分の力で何とかしようとしたり、諦めたりします。自分本位で出来事を解釈し、解決しようとします。
- 救いの手…けれども絶体絶命、危機一髪のところで救いの手が差し伸べられ、九死に一生を得るという体験をされた方も多いと思います。いわんや人生は、その繰り返しと言えます。私たちの知識・感情・意志を超えた不思議な力が働きます。
- 信頼と祈り…その力が働くには、果物の実が熟すまでにそれ相応の時間が必要なように、時間が掛かります。その間、主に信頼して主に祈るとき、豊かに実を結ぶ、そう、みことばは約束しています(マタイ21章22節、ヨハネ15章5節、7節参照)。イエス様のことばに信頼し、イエス様につながっていることが、私たちの人生の礎です。
- 結び…新しい1週間、主に信頼し、主に祈り、豊かな実りで皆さんの人生が(今年のクリスマスツリーのように)満たされるよう、祝福して祈ります。
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