Posted on 01/24/2021 at 17:04, by matsumoto

異言とアルファ波について(証し)

最初はなんの話から始まったのかは忘れてしまったのですが、東京にいる友人から、あるアメリカ人のセミナーのDVDをみせてもらいました。それは簡単にいうと、その講師がいうところの「偉大な存在」(私はこれは神様だと解釈しました)とつながって人が本来もつ可能性に気づいたり生かしていけるためのセミナーでした。やり方は、瞑想のようなものでした。それによって脳波がアルファ波やデルタ波などに変化していき、潜在意識のレベルから変えていけるとのこと。理論とか考え方はとても共感したのですが、瞑想というか、じっくり静まる時間をもつことが子育てしていると、とくにホームスクーリングしているとなかなかできません。それでとても歯がゆい思いをしていました。そのセミナーの説明と、自分が静まる時間をとれない・何か方法はないかなどと考えていたときに、ふと、異言がそもそもこのセミナーが説明していることと同じ働きをするんじゃないかなと思ったのです。
それで、まずはインターネットで日本語と英語で検索していたら、見つけたサイトがいとすぎ教会のブログ(?)で書かれていた、異言により脳波がアルファ波になるという記事でした!

今回送っていただいた本を読んで、さらに理解が深まりました。一つとても助かったのは、これまで私は異言で祈ろうとするとなかなか続きませんでした。一つには、異言で祈ってても、子供との会話で中断してしまうのです(息子はお話好きです)。けれど、本を読んで、なぜ、異言がすぐに中断されていたのかが良く分かりました。β波とアルファ波の周波数の差はとても小さいので、人の脳波はすぐにβ波に移行してしまう、という説明で納得できました。これが理解できてからは、なんと途中で息子から話しかけられたりしても、他の用事が入っても、異言が中断されなくなりました!しかも、子育てにおいても、異言で祈れる時間が増えたことで、私の思いや考えが雑念から解放されて、イライラすることが激減しました。

Posted on 08/02/2020 at 18:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『上にあるもの』(イエス・キリストの生涯 その119)(2020.8.2)

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ人への手紙3章1-2節)

  • はじめに…先週、図書館で本を借りて来て読んでいるとお話しました。その内の1冊クローニン著『天国の鍵』を読み終えました。自らの今日までの牧会の歩みと重ね合わせながら読み進めました。主人公の牧者としての在り方(キリスト教の形骸化した、あるいは律法化した教理に囚われない生き方など)に共感する部分が多くありました。
  • 上にあるものを思う…今日のテキストはコロサイ人への手紙3章です。パウロの書簡の特徴は、前半は教理について、後半は実践についての内容が記されていることです。3章からは実践部分になります。その冒頭部分で「上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」とパウロは勧めています。
  • 人間…ところで“人間”はギリシア語で“アンスローポス”です。語意は“上に顔を向ける者”という意味です。人間的な視点から言えば、目標を目指し、理想を追求し、希望を抱く者と言ってもいいでしょう。ところが、最初の人間、エバとアダムは、蛇(サタン)の誘惑のことばによって、食べてならいと聞かされていた目の前に麗しく実っていた善悪の知識の木の果実を取って食べました(創世記3章)。「もっと賢くなりたい」「神(の子)のようになりたい」という高い目標、理想、そして希望を、強引に自らの手元へ引き寄せ、貪欲、野望に変質してしまったのです。目標、理想、希望は奪うものではなく求めるものであって、叶うものなのです。与えられ、見出され、開かれるものです。
  • あわれみの主…そんな自己中心で自分勝手な人間に対して、創造主は決して諦めません。探し求めて御声をかけてくださいます。「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)と。そして罪、咎、過ちを隠そうとする私たちに対して、強引にはぎ取って公に晒(さら)すのではなく、反対に“皮の衣”を着せてくださり、生かしてくださる方です(同21節)。皮の衣は、十字架で肉を裂かれ、血を流された贖い主イエス様の予表です。その主が天から降って来られ、「あなたはどこにいるのか」と御声をかけ、懐(ふところ)に招いておられます。上にあるもの、それは尽きることのない主の愛です。
  • 結び…私たちに対する愛ゆえに十字架に掛かられ、救いの御業を成就してくださった主に、栄光がありますように。
Posted on 07/26/2020 at 19:04, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『十字架で裂かれた体=キリストの割礼』(イエス・キリストの生涯 その118)(2020.7.26)

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(コロサイ人への手紙2章11節)

  • はじめに…コロナウイルスの感染拡大が続き、予定していた金曜日からの壱岐行きはキャンセルにしました。きっと主のご計画があったのだと信じています。それで少し時間ができたので、久しぶりに図書館で本を3冊ばかり借りて来て読んでいます。ちなみにその3冊の書名は松本元著『愛は脳を活性化する』、クローニン著『天国の鍵』『城砦』です。
  • 異端(グノーシス主義他)…パウロがこの書簡をしたためたのは、第3回の伝道旅行の際、エペソに約3年間滞在した間に信仰に入り、コロサイ教会の基礎を築いたエパフラスが、教会に異端が入ってきたことで、獄中にいたパウロに相談に来たことがきっかけでした。ユダヤ教に逆戻りしようとするものであったり、禁欲主義的なものであったり、ギリシャ思想哲学(霊肉二元論)によるものだったりしたようです。それらに対してパウロは、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(コロサイ2章3節)と、真理はキリストにあり、キリストにしっかり結び付くよう勧めています。
  • キリストの割礼…今日のテキストは、“割礼”に関することです。割礼はユダヤ人にとっては重要な儀礼です。神様との契約のしるしであり、祭り(過越し)参加の権利を得る手段、清め、救いの手段と考えられています(創世記17章10節、出エジプト12章48節他参照)。ゆえにユダヤ人は、安息日においてさえ、割礼(による潔め)を行っていました。しかしパウロは人の手による形式的な割礼を絶対的に重要なこととは考えておらず、イエス様が十字架で肉を裂(割)かれた贖いの御業を“キリストの割礼”として最も重要なこととして伝えています。まことの真実であり、かつ霊的であるイエス様の贖いの十字架こそが、真の割礼、唯一の救いの手立てだ、そうパウロは語っているのです。イエス様ご自身も、割礼について、安息日との関連で言及しています(ヨハネ福音書7章14-24節参照)。教えや振る舞いが、神から出たものか、それとも人からのものか、その見極めは、神の御旨と信ずるところを行なおうと願うことだとイエス様はおっしゃいました(同17節)。そうするとき、私たちは自分自身の無力さと罪深さとを体験します。結果、イエス様の十字架の贖いの御業に与るより外に救いの道がないことを私たちは知らされます。
  • 結び…私たちに対する愛ゆえに十字架に掛かられ、救いの御業を成就してくださった主に、栄光がありますように。
Posted on 07/19/2020 at 14:11, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『暗闇から光の中へ』(イエス・キリストの生涯 その117)(2020.7.19)

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ人への手紙1章13節)

  • はじめに…藤井聡太さん(棋聖)が史上最年少の17歳11カ月で将棋タイトルを獲得後に揮毫したことばは「探究」。「将棋は本当に難しいゲームで、まだまだ分からないことばかり。これからも探究心を持って盤上に向かっていきたい」と更なる高みを目指していました。”ひふみん”こと加藤一二三九段(クリスチャン)もツイッターで、藤井新棋聖の誕生を「史上最年少戴冠の偉業達成 心より御祝い申し上げます」と祝福していました。重苦しい世界のただ中にあって、未来への希望を与えてくれる明るいニュースでした。
  • 感情をコントロールする…加藤一二三さんは、著書『感情の整理術123(ひふみ)』の中で、こんなことを言っています。「人間はみんな「自然感情」をもっています。たとえば怒り。場合によっては嫉妬もあるでしょう。そういうごく自然に浮かんでくる感情をいかにコントロールするかということが大切。自然感情が湧くままに、赴くままに生きたとしたら、必ず失敗します。たとえば、怒るようなことがあったとしても、「待てよ」と一度、相手の立場に立ってみる」「人間の言葉というものは、ときに冷酷な、ほんとうに無慈悲な言葉とかすごい言葉は、相手を殺すといわれていますから。人間の言葉によって死んだ数が、戦争で兵隊が死んだ数よりも多い。やはりいかなることがあっても、相手の人格否定はダメですね」
  • 広大無辺の書…今回、コロサイ人への手紙を前にして宇宙大のスケールに圧倒されて、ことばが無いというのが正直なところです。一人の老境に入った伝道者が不自由な獄中で認(したた)めた小書簡の中に、圧倒的な主の愛、力が凝縮されていて、開いたとたんに止めどもなく溢れ出す、そんな感じです。溢れる愛と力によって万物を創造された主が、暗闇に迷い込み、圧し潰されかかった私たちを救い出し、新しい歩みを始められるように広く温かいイエス様の懐に包んでくれている、その事実、真実を確信させてくれます。当時のコロサイに生きた聖徒たち同様、時間を超え、歴史を経て、今、ここに集まっている私たち一人ひとりの祈りをも聴かれるイエス様の内に生かされているのです。ゆえに主から力を与えられ強められ、更なる探求心を持って、かつ自らをコントロールして、それぞれの課題にチャレンジし続けたいと思います。「求める者は受け、探(捜)す者は見つけ、たたく者には開かれる」(マタイ7章7-8節)とイエス様は約束して下さっているのですから。
  • 結び…イエス様の広く温かい懐の中で、喜び楽しみながら輝いて生きる人生の舞台が一人ひとりに備えられていることを感謝します。
Posted on 07/12/2020 at 17:31, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『祈り場』(イエス・キリストの生涯 その116)(2020.7.12)

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章7節)

  • はじめに…家庭において、職場において、あるいは教会において、意見、主張、見解が異なり、反目したり対立することがしばしばあります。感情が高ぶり、頭に血が上り、怒りを露わにしたり、反対に気分が落ち込んで、胃がキリキリ痛むようになるなんてことも経験があるのではないでしょうか。その空気感が周囲にも伝染し、険悪な関係になったり、溝ができたり、しこりになったりすることもあるでしょう。ピリピ教会にも、そのような憂慮すべきことがあったようです。パウロはピリピ書の最終章でそのことを記しています。
  • ユウオディアとシンティケ…対立、あるいは反目していたのはユウオディア(=良き案内者、あるいは芳ばしい香りの意)とシンティケ(=めぐり合わせの意)という二人の女性です。ピリピの教会は、パウロのヨーロッパ伝道において、ルデヤ(女性)とその家族を初穂として生まれた最初の教会でした(使徒16章12-15節)。もともと、川岸の祈り場に集まっていた女性たちとパウロの出会いから教会へ発展したのでした。その教会が成長する過程で、ユウオディアとシンティケは、教会のリーダーとして福音宣教の働きを熱心に担っていたのでしょう。
  • 熱心さが裏目に…時として物事に対する熱心さが、裏目になることがしばしばあります。対立の小さな芽になったりします。相手のためを思って、あるいは集まり全体のことを配慮しての発言や行動が、問題の火種になります。知らず知らずの間に、自分中心、人間中心の振る舞いになってしまいます。いつの間にかイエス様から離れてしまっているのです。
  • 解決はいずこに…そんな中、パウロは「真の協力者(=共に軛を負う者)よ、助けてあげて」(ピリピ4章3節)と、周囲の人々に、問題解決に向けて協力を要請しています。つまり「傍観しないで」「無関心でいないで」そう訴えているのです。具体的には“主にあって喜ぶ”ことと、“感謝をもって祈る”ことです。あの最初の“祈り場”に集まっていた時のことを想い出してほしい、そうするなら「人知をはるかに超える神の平安によって(天使が陣を張って)守られる」(同7節)、それがキリストの体なる教会だ、そうパウロは確信し、勧めています。だからどんな問題が目の前に立ちふさがっても“思い煩う(心の分裂)”にはおよばない、イエス様に繋がっているならイエス様から力が与えられ、何でもできる(同13節)、そう信じます。
  • 結び…イエス様に繋がって喜び、感謝をもって祈る、その信仰の原点(祈り場)を想い起こし、一歩を歩み始めることができるよう、祈ります。
アーカイブ ログイン お問い合わせ