Posted on 02/17/2019 at 18:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『12使徒ユダの後悔』(イエス・キリストの生涯 その53)(2019.2.17)

ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。             (ヨハネによる福音書13章30節)

  • はじめに…十二使徒の学びをしていますが、今日は、イスカリオテのユダの記事からイエス様の愛にフォーカスしてみたいと思います。
  • 都会人ユダ…ペテロやアンデレは漁師で田舎者出身ですが、ユダはイスカリオテという形容が付いていますが、これはカリオテという地域を表わしていて、いわゆる都市です。ですからユダは都会人特有の洗練されたクールな感覚を持って合理的な考えをする性格だったのかも知れません。それ故に十二使徒達の中で会計係を任せられていたことも頷けます。
  • ユダの裏切り…やはりお金を扱う仕事をしていると、お金が物事の価値を計る基準になってきます。ですからラザロの姉妹マリヤがナルドの香油をイエス様の足に塗った際、ユダは「なぜ、香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12章5節)と、マリヤのしたことに対して責めています。主のみこころは何なのかということはまったく考慮していません。
  • 今すぐしなさい…今日のテキストは最後の晩さんの出来事ですが、イエス様はユダが裏切ることをご存知でした(ヨハネ13章11節)。それは詩篇41篇9節に書いてあることが成就することでした(同18節)。最後の晩さんの席で使徒ヨハネはイエス様の右に、そしてユダは左の席についていました。イエス様の側近だったわけです。その最も近くに置いていたユダにイエス様は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(同27節)とおっしゃいました。つまり時は過越しの祭です。その真実の贖いの小羊となるために今、この時だったのです。
  • 後悔と悔い改め…そのイエス様の促しの声掛けに応じてユダはすぐに外へ出て行きましたが、「すでに夜であった」(同30節)とヨハネは記しています。祭の日は満月と決まっています。つまり外は煌々と月明かりが照っていた訳ですが、ユダの心は闇で覆われていたのです。このコントラストをヨハネは描き出しているのです。晩餐の後、イエス様と使徒たちはゲッセマネの園へ向けて移動し、その途中にあったぶどう園のところで、イエス様は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです」と語られました(同15章5節)。ユダは、イエス様が十字架の死を遂げられた後、自責の念で自害してしまいました。もし、イエス様のところに罪人ユダの姿のままで戻って来たなら、罪赦され、新しく生き直すチャンスが得られたことでしょう。イエス様は、最後の最後まで愛する者の帰還(悔い改め)を待っておられることでしょう。
  • 結び…イエス様は「わたしにつながっていなさい」と声を掛けていてくざさいます。自分の罪や不甲斐なさを後悔してイエス様から離れたままでいるのではなく、イエス様のふところへ帰り、ぶとうの木につながる枝になること、すなわち悔い改めを今日も待ち続けておられます。
Posted on 02/10/2019 at 18:49, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『使徒アンデレ』(イエス・キリストの生涯 その52)(2019.2.10)

イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(…)ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。(ヨハネによる福音書1章36-40節)

  • はじめに…1月27日に介護福祉士試験を受験しました。その2問目(※)が、フランクルに関する問題でした。受験者の間では「フランクル・ショック」と呼ばれています。フランクルは、20世紀最大の悲劇といわれるナチスの強制収容所から生還した心理学者です。また27日は「国際ホロコースト記念日」でした。
  • 国際ホロコースト記念日…国連は、ユダヤ人の3分の1、そして無数のマイノリティーの人々が殺害されたホロコーストを再確認し、憎悪、敵対感情、人種差別、偏見がもつ危険性を永遠に人々に警告することを目的に、ユダヤ人強制収容所のアウシュビッツが解放された1月27日を「国際ホロコースト記念日」と定めました。(国連広報センターHPより引用)
  • それでも生きる意味はあった…人々が何の罪もなく一瞬にして殺される苦悩に満ちた状況においても「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」、そうフランクルはいいます。別の言葉で言えば「召命と使命がある」と言って良いでしょう。過酷な環境で自分の「使命」を意識した人は心を強く保ち、フランクル自身の「使命」は、失われた原稿(ロゴ・セラピーに関する論文)の再現作業でした。人はそれぞれどんな時にも、かけがえのない使命に召し出されているのです。
  • 使徒アンデレ…アンデレは12 使徒の中でイエス様の最初の弟子になりました。そして①兄弟ペテロをイエス様に引き合わせ(ヨハネ1章41-42節)、②5つのパンの2匹の魚を持った少年をイエス様に引き合わせ(ヨハネ6章8-9節)、そして③ギリシア人たちをイエス様に引き合わせています(ヨハネ12章20-22節)。重要な働きをしていても、会堂管理者ヤイロの娘の病気の癒し(マルコ5章37節)、イエス様の山上の変貌(マタイ17章1節)、十字架に架かられる前夜(マルコ14章33節)の重要な場面には立ち会わせてもらっていません。私たちなら「なぜ!?」と心が動揺ところででしょう。しかしアンデレは動揺しません。
  • 結び…使徒アンデレは自分に与えられた「召命と使命」の確信を、イエス様に従う中で徐々に強め、イエス様に対する信頼感で満たされていたのでしょう。

※問題2 

「夜と霧」や「死と愛」の著作があるフランクル(Frankl,V)が提唱した価値の説明として、適切なものを1つ選びなさい。

1 公民権運動により差別を解消すること。

2 生命が制限される状況において、いかなる態度をとるかということ。

3 最低生活水準を保障すること。

4 ライフサイクル(life cycle)を通じたノーマルな発達的経験をすること。

5 アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃すること。

Posted on 02/03/2019 at 09:16, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『力をくださるイエス様』(イエス・キリストの生涯 その51)(2019.2.3)

「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。 (マタイによる福音書16章19-20節)


  • はじめに…イエス様は多くの弟子の中から12人を選び使徒とされました(マルコ3章16-19節、ルカ6章13-19節、マタイ10章1-4節)。しかし彼らはイエス様が語られることを十分には理解できませんでした。イエス様の十字架と復活、昇天の後、聖霊降臨によって、彼らは使徒として働き始めたのです。
  • ペテロに与えられた権威(※)…弟子とは師から学ぶ者、使徒とは師から派遣される者です。そしてイエス様は、汚れた霊どもを制する権威(マタイ10章1節)等々、使徒的権威を与えられました。ペテロに「天の御国の鍵を上げます」(マタイ16章19節)とイエス様は言われます。これはペテロを含む使徒たちによって福音が語られていく、という預言です。福音が語られ、イエス様をメシアと信じる人々が増え集まった時、その群れのリーダーシップをとる権威が与えられました。
  • つなぐこと、解くこと…法律用語で“つなぐ”とは有罪、“解く”とは無罪です。使徒の働き5章1-11節、アナニヤとサッピラが持ち物を売った代金の一部を残し、これがすべてです、とペテロにいつわりを言う場面があります。これを見抜いたペテロは「あなたは神をあざむいた」と審判し、結果2人は息絶えてしまいました。またパウロも審判を下す場面があります。このようにイエス様から権威を与えられた使徒たちは、イエス様がメシアであることを果敢に宣教しました。まさにイエス様の預言の成就です。
  • 共におられるイエス様…使徒たちに権威を与えられたイエス様は、それはご自分の十字架の時が近づいてきた頃でした。ご自分がこの世を去ったあとの弟子たちのことを案じ、父なる神に祈られました(ヨハネ17章1-26節)。イエス様の昇天後、その権威を用いて患難を乗り越えるように、そして、その権威を与えて下さったメシア・イエス様の生き様を想い起し、どのように生きるべきかを実感し、主が共にいることを示そうとされました。イエス様はいつも私たちのことを案じ、祈って下さっています。そして、私たちに必要なものを惜しみなく与え励まして下さいます(ヨハネ17章15節参照)。

※【権威】גְבוּרָה(ゲブラー)/力、勇気、大能のみわざ(詩篇54篇1節、イザヤ30章15節、エレミヤ9章23節他→使徒の働き1章8節)…旧約聖書(新改訳)で「権威」と訳されている言葉は、ヘブル語原語では「ゲブラー」。この「ゲブラー」が使われている新約聖書(ヘブル語訳)の箇所に使徒の働き1章8節の「力」がある。

使徒の働き1章8節

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは(גְבוּרָה=ゲブラー=権威)を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人(עֵדַיイザヤ43章10-11節参照)となります。

ここから「権威」とは聖霊がその根拠であり、目的はキリストの「証人」となることだと理解することができる。

Posted on 01/20/2019 at 18:22, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしの教会を建てます』(イエス・キリストの生涯 その50)(2019.1.20)

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 (マタイによる福音書16章18節)


  • はじめに…昨年12月頃、ヨルダンの“ペトラ遺跡”で、山から土石流が流れ出す災害が起きました。ペトラ(ギリシャ語で「大きな岩」の意)は、ヘブル語名では“ボツラ”です。ボツラはイザヤ書63章1節に出てきますが、イザヤによって語られた主の再臨の預言の地です。今日の聖書の箇所に「ピリポ・カイザリヤ」という地名が出てきますが、実はこのペトラ遺跡の近くで、またボツラ周辺を指します。主の再臨の預言の地で、イエス様はペテロに語られました。
  • ペテロとペトラ…イエス様をメシアとして認めないユダヤ人への伝道から弟子訓練に移行されたイエス様。そこで「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」(マタイ福音書16章15節)と弟子たちに尋ねます。シモン・ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」(同16節)と答えます。彼が聖霊によって告白したことをイエス様はご存知でした。そしてイエス様は「あなたはペテロです」(同18節)と言われました。ピリポ・カイザリヤはヘルモン山のふもとにあり、小川が流れています。川底には小石(=ギリシャ語で「ペテロ」)が。イエス様が「この岩の上にわたしの教会(集会)を建てます」(同上)と言われた「岩」はペテロ(小石)ではなくペトラ(大きな岩)です。
  • 岩の上に建つ教会(集会)…ここで言う「教会」とは建物の教会ではなく、私たち一人ひとりのことです。小石であるペテロ。しかし聖霊によって霊の目が開かれ、イエス様をメシアと告白しました。その告白を受け入れ、包み、覆ってくださるイエス様の愛の姿。それがまさにペトラです。イエス様の十字架の贖い、その確かな愛を受け取り告白した時(声に出して、あるいは心の内で)、私たちが教会となるのです。一時的な建物の教会ではなく、聖霊によって御国を受け継ぐ者として保証されている教会(エペソ1章15-16節参照)、それが私たちです。地上にあっても天上にあっても私たちはイエス様の教会です。
  • 結び…私たち一人ひとりが教会です。そして「わたしの教会」と声を掛けてくださっています。ハデス(=滅び、死)の門もこれに打ち勝てません。
Posted on 01/13/2019 at 19:34, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『安息といのちのまなざし』(イエス・キリストの生涯 その48)(2019.1.13)

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。(マタイによる福音書12章15-17節)

  • はじめに…デイサービスの利用者さんを送迎車で送迎する時間は、とても有意義な時間です。人生の先輩たちが体験し学んだ人生の知恵に溢れている話を聞けるからです。元看護師だった方の話。「主人の様態が急変し、救急車を呼んで病院に救急搬送したときのこと。病院から自宅へ帰るためタクシーを呼んだとき、そのタクシーの運転手がさっと足元に新聞紙を敷いてくれた。というのは、急いでいたので靴も履かず裸足だった。ありがたかった。小さいことだけれど、こういうことの積み重ねが大事だと思った。」その話を聞いて、マザーテレサも言ったように“どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか”それが大切だということを改めて考えさせられました。
  • みないやした…安息日論争の後、イエス様はガリラヤ湖畔に退かれました。しかし、イエス様の教え、いやしの噂を聞いた人々、なかでも病気に悩む人々が、大挙としてイエス様のところへ押し寄せてきました。イエス様は、それらの人々を“みないやし”(マタイ12章15節)とあるように、見て見ぬふりをしたり、適当にあしらうようなことはされませんでした。疲れも覚えておられたことでしょう。しかし心を砕かれ、最善を尽くされました。
  • まなざしの方向…先週の日曜日、NHKの番組で「サグラダ・ファミリア」の特集番組がありました。サグラダ・ファミリアは建築家ガウディの設計で、建築からすでに130年を経て、今もなお建築中です。2018年の秋からその会堂の中心部分に“イエスの塔”の建築が始まったそうです。その芸術工房監督を日本人の外尾悦郎氏が担当しています。その外尾氏が次のように語っています。「何も無くなってしまった時、絶望というものがあった。絶望の中にいて、やめるしかないと思ってた。でも、だとしたら、ガウディはどこを見てるんだろう? と、ふと思ったわけ。ガウディが見ている方向を見てみようかなって。それを考え始めたら、思いもよらずスーッとガウディが自分の中に入った」
  • 結び…イエス様の見つめるまなざしの方向に思いを合わせて歩む一歩一歩でありますように。そこに安息といのちに満たされた世界のはじまりがあります。
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