Archive for 5月, 2020
Posted on 05/31/2020 at 21:54, by matsumoto
怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません(…)互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(エペソ人への手紙4章26,32節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)
- はじめに…先週、いとすぎ教会で礼拝を共にしている姉妹が、いつもスマホにみことばが送信されて来るなかで、ガラテヤ人への手紙6章7節のみことばによって怒りが鎮まり平安を得た、そう証しをしてくださり、私たちもその証しに霊の感動を覚えました。ただ姉妹のなかに自分のみことばの受け止め(解釈)が間違っていないか、独りよがりなのではないか、そんな一抹の不安があったようです。ガラテヤ書6章7節のみことばは以下のみことばです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」
- 文脈と生き様…つまり、このみことばは、元来、過ちを犯している者を叱責するみことばであるはずのものを、善い意味に勘違いしているのでは? という疑問でした。確かにこのワンフレーズだけを切り取った場合、過ちを正す意味に捉えられますが、次節の文脈との関係で観るとき、両義的な意味を持っていることが明らかになります。8節「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」姉妹はガラテヤ6章7節を目にして(聴いて)瞬時に次節のみことばをも悟り、いのちの実を刈り取ったのです。ハレルヤ!
- 平安と赦し…本主日は、ペンテコステです。50日目という意味で、最初は大麦の初穂の収穫(過ぎ越し)の7週間後の小麦の収穫(刈り取り)の祝いの日でした。後に出エジプト(奴隷解放)から7週間後(つまり50日後)にモーセがシナイ山頂でトーラーを授かった記念日(出エジプト19章)となりました。そしてイエス様の十字架、復活の7週間後の聖霊降臨の出来事を記念する日となっています(使徒の働き2章)。それで「教会の誕生日」と言われます。聖霊の宿る教会は平安と赦しに満ちています。なぜなら「あなたがたに平安を与える」(ヨハネ14章27節)「赦しなさい」(ルカ17章4節)と使徒たちに語られたイエス様が教会の頭だからです。私たちの内なる教会から平安と赦しがあふれるのは、聖霊の働き、そして聖霊の証しです。これをパウロはエペソ書で「新しい生き方」タイムリーな言い方をすれば「新しい日常」として示しました。
- 結び…新型コロナ禍のただ中で、霊的な「新しい日常」をはっきりと示してくださった主に感謝します。
Posted on 05/24/2020 at 18:29, by matsumoto
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように(エペソ人への手紙3章19節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)
- はじめに…先週、私の勤めるデイサービスの利用者の息子さんが“ぞうのウンチ”で紙を作るビジネスをしていることをお話ししました。そのプロジェクトを分かりやすく説明した絵本『ぼくのウンチはなんになる?』がミチコーポレーションから出版されています。簡単に言えば、ゾウと人間が共生できるビジネスモデルです。傷ついたり、親を失ったゾウを保護して、そのゾウのウンチから紙を作っています。儲け優先ではなく、自然と人間への愛が基本にあります。
- 奥義と祈り…今日のテキストのエペソ3章は、パウロに啓示されたキリストの奥義と祈りが主題です。奥義は御霊によって啓示されているとパウロは語ります(5節)。つまり人の知識や能力によっては知ることができないのです。ですからパウロは、この奥義を知らせる務め=福音宣教は神の働きによって与えられた恵みだと言います(8節)。その内容は、「キリストの測り知れない富」です(同)。
- 計測不可能…人間の力、能力では計測不可能なキリストの富、そして人知をはるかに超えたキリストの愛(19節)。その富、その愛は如何ばかりでしょうか。パウロは祈ります。無防備な姿でこの世に生まれ、無力な姿で十字架に死なれたイエス様に、心の核心に住んでいただき、愛に根ざしているあなたがたが、キリストの富、キリストの愛に満たされる(プレーローマ=あふれ出る)ようにと(17-19節)。植物が地中深く根を張って、栄養分を吸収して生長するように、キリストが私たちの内の最も深いところに住んでくださり、そのキリストから愛を受けるとき、測り知れない主の富と愛があふれ出ると、パウロは確信してエペソの人々に、そして私たちに伝えているのです。
- いばらの冠と義の栄冠…富は永遠のいのち、聖霊、愛はあがないと、それぞれ言い替えてもよいでしょう。あがないの愛の御業と聖霊の働きが、私たち教会を通して知られることが、主の永遠の計画(経綸)だと、パウロは語るのです。愛に富まれるイエス様は、いばらの冠をかぶり(ヨハネ19章5節)、十字架に死なれました。それはパウロに、そして私たちに義の栄冠、朽ちない冠、いのちの冠を得させるためでした(Ⅱテモテ4章8節、Ⅰコリント9章25節、黙示録2章10節)。冠、栄冠はコロナ=クラウンです。
- 結び…新型コロナ禍の後、ポストコロナは、いのちの冠(The crown of life)を戴くための新しい時代の幕が開かれる、そう信じます。
Posted on 05/17/2020 at 10:04, by matsumoto
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、(…)このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。(エペソ人への手紙2章14-18節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)
- はじめに…今年も庭のバラが美しく咲きました。散歩する人の中には足を止めて見入る人があったり、フェイスブックにアップしたバラの写真に「いいね!」や「素敵な薔薇達ですね。どうぞ!と招いてくれている感じがします」とコメントを書いてくれる人があったり。バラを介して、ほっこりするかけがえのない贈り物を頂いた、あるいは新鮮な空気を吸って生き返った、そんな感じです。
- 出会い…私の勤めるデイサービスの利用者、そしてスタッフの家族や親族の中にはいろいろな才能、賜物をもっている方があります。学者さんだったり、お医者さん兼作家だったり、ユニークな事業家(なんと“ぞうのウンチ”で紙を作るビジネス)だったりします。それらに驚きつつ、触発されます。私自身からは、決して見出すことのなかった分野の方々です。皆さんの中にも、ご自身の人生が大きく変わるきっかけになるような、そんな贈り物のような出会いが何かしらあるのではないでしょうか。
- 仲介者イエス・キリスト…エペソ人への手紙の著者パウロも、その人生を180度転換させられる出会い、すなわち復活のイエス・キリストとの出会いを体験したのです。そのイエス様との出会いによってパウロは異邦人とユダヤ人の仲を取り持ち、また、父なる神と人との和解のために奔走しました。すなわち神の愛に生き、神の愛を伝え、数々の教会創設のきっかけを作り、人生を走りつくしたのです。自らのイエス様との出会によって身をもって体験した神の愛の真実を伝えずにはおれなかったのです。神の子イエス様が贖いとなり、あらゆる敵意(障壁)を取り除き、父なる神との霊の交わりができるようにしてくださった、これは神の一方的な恵み以外、何によっても不可能なのだと。これは永遠の昔からの神様の愛のうちに計画(預言)されていたことです(イザヤ書57章15-19節参照)。『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです』(エペソ2章4-5節)
- 結び…今日も自然を介して私たちをいやし、人を介して私たちを励ますお方は、父の愛ゆえに天から地に降り来て、十字架にてご自身のいのちと引き換えに私たちを新しく生かしてくださっている、恵みと平和の主イエス様です。感謝します。皆さんの人生の一瞬一瞬に、必ず主の恵みと平安が豊かにあります。
Posted on 05/10/2020 at 09:56, by matsumoto
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ人への手紙1章4節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)
- はじめに…車を運転するときには、事故を起こさないように前後左右の安全を確認することはもちろんですが、ふと目を上げて空を見ることがあります(脇見ではありません)。美しい夕焼けだったり、オレンジ色の満月だったりします。先日はきれいな虹が掛かっていました。そんなとき、自分の心の眼の視野が狭くなっていることに気づかされます。目の前の現実、しかも非常に偏った見方をしているのではないかと思わされます。もっと大切な視点があるのだと語りかけられているような感じがします。
- エペソ人への手紙…前回も触れましたがローマ幽閉中にパウロは「獄中書簡」(エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書)をしたためました。その中で最初に書かれたのが「エペソ人への手紙」です。比較的自由な環境であったようですが、やはり捕らわれの身。行動は制限され、ほぼ自費で借りた家にとどまっていたことでしょう。しかしパウロの霊は天に向かって開かれ、この地上、この世界にとどまらず、揺るぎない“神の意志”“神の計画(経綸)”を明確に意識するようになっていました。つまり啓示を受けていたのです。
- みことばの経済…神の計画(経綸)、それは神の愛(みことば)の経済の成就です。お金で回る経済ではなく、みことばによって回る経済です。それは全世界、もっと言えば全宇宙規模の経済です。キリストにある平和(の福音)が隔ての壁を打ち壊し、みことばがユダヤ人だけでなく異邦人にも届けられ(エペソ2章14節)、みことばの経済が神の(国)の家族を作り上げるのです(同19節)。家族の長は父なる神です。イエス様はその父なる神の子です。そして私たち一人ひとりは、神の子なるイエス様に結ばれた(あがなわれた)兄弟姉妹です。このことが、天地が創造される以前に、愛なる神のご計画の中に落とし込まれているのだと、パウロは確信をもってエペソの人々に伝えたのです。神の愛(みことば)の経済は永遠です。イザヤも預言しました。「草は枯れ。花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40章8節)。イエス様も語られました。「空の鳥、野の花を見なさい。天の父はあなたがたの必要は知っておられます」(マタイ6章19-34節参照)。
- 結び…今日、そして一日一日、聖霊の力で私たちの内なる人を強くし、恵みによる信仰によってイエス様が心のうちに住んでくださり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知り、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、皆さん一人ひとりが満たされるよう、祈ります(エペソ3章14-21節参照)。
Posted on 05/06/2020 at 19:16, by matsumoto
イギリスの著名な歴史学者でアーノルド・トインビーという人がおりますが、年頭にあたって書いた論文の中でこういうことを言っている。
大人にしろ、青年にしろ、人間は何のために生きるべきなのか。人間の役に立つことをするために、というのはその一つだが私はそのほかに別の目的があると思う。私は宇宙の現象の中およびその背後にある究極的な精神の実在、それが如何なるものであろうとも、そういう究極的な精神の実在に自分を調和させるように一人一人が努力しなければならないと信じている。言いかえるならば私は人間には宗教的なものが必要であると信じている。
そう申しております。これが歴史学を窮めた学者の見解であります。トインビーは伝統的教派的な意味における信者ではないようですから、彼がこの説を唱えているのは歴史学者としての学問的結論といってよろしいかと思います。
私は勿論、歴史学の専門家ではありません。しかし、かつて旧約聖書の創世記をはじめて通読した時に、今、トインビーが述べていたのと極めて近い感想を抱いたことを思い起こします。創世記には幾世代にもわたる民族の歴史が書かれておりますが、それは単なる事実の羅列ではなく、そこに一貫して流れる絶対者の意志というものが書かれています。すなわち、絶対者の意志によって、人間の一つの世代から他の世代へと時代が移って行っている。そして、どんなに強い人間でも、絶対者の意志にそわなかった者は歴史における単なるフラクチュエーション(動揺、ふらつき)として、枝葉として、後代に残る本流からは外れていっている。どんなに弱い者であっても、神の欲したもうたその流れに沿うておる者は歴史の本流としてたてられていっている。そういう感想を持ちました。
そう思って読んでみますと、聖書というのは大変古い書物でありますが、我々が今問題にしてきたようなこと、また歴史学が基本的な問題として提起している事柄に関していえば、そういう問題をきわめて明確に意識し、これに対して思い切った答を与えている書物であることが分かります。
歴史学者が宇宙的な意志、絶対的な意志と呼んだものを、聖書においては「唯一の真(まこと)の神」という言葉で呼んでいます。歴史の底に絶対者の意志が一貫性を持って流れているということを、聖書においては歴史は神の経綸の展開である、そういう言葉で表現しております。「経綸」という言葉の原語はオイコノミアですが、今日の言葉でいえばエコノミー、経済とか、経営とか、家の仕末とかそういう意味あいの言葉であります。すなわち、歴史の底には神の計画と予定が一本貫いて流れているというのが聖書の考え方であります。
人間の行動や自然的な出来事はきわめて多様性に満ちておりますが、長い目で見ると、事の成り行きは瞬間的な出来事や目先の意図とは必ずしも一致しないところの「神の意志」というものが歴史を貫いている。しからば神の意志とは何であるか。神の意志の内容は何であるか。歴史の経綸の目的は何であるか。これは形式論を越えた重大問題でありますが、聖書にしたがえば、人間にとって必ずしも理解し難い事柄ではありません。それは、罪に囚われた人間を救い主イエスを信ずるという道よって解放し、救うという事実から出発しています。しかし、救いは個々の人間にとどまるのではありません。そこがすべてのことの出発点ではありますが、さらに進んで、救われた人間の営む歴史の究極的目標として、「神の国」という考えが聖書にあらわれております。信仰によって救われた人々が相寄って「神の国」という理想の社会を営む、そしてこの「神の国」を完成するということが聖書における神の経綸の最終目的であります。そういう明確な恩恵の意図を持って神は歴史を導いておられる。
歴史の段階的発展ということを申しましたけれども、これに関する言葉として聖書には「クリシス(審き)」という言葉があります。今日でもクライシス(危機)という言葉になって残っております。歴史を区分する時代、それをアイオーン(世代)と申しますが、古い時代から新しい時代に移っていく際に、必ずしも漸次的連続的に移行するわけではなく、きびしい選別が短時間に行われることがある。不要な古い要素が捨てられて新しいものが急激に現れる、激変の起こる場合があります。これを聖書では「審き」とよんでいるのです。
神が歴史を導く目的は最後の審判をへて神の国を完成することにありますが、神はその終極的な目標の実現に対して決してせっかちではあり給わない。忍耐を持って歴史を導いておられます。それ故に、歴史には小規模の上り下り、言いかえれば小規模の「審き」ということが繰り返し現れてくる。そういう意味で時代が画されていくのであります。
こうして、歴史には大きな波が出現するのですが、その無気味な大変動に直面した時、小さい人間はしばしばどうしていいか分からないということになります。もし、頼るべきものは自己の存在以外にないということであれば、あるいは一人よがりの楽観論によって人を欺く者があらわれたり、あるいは悲観的絶望的な自己激励と反抗に身を亡ぼす、というように右往左往する事態が発生するのであります。けれども、神を信ずる者、その恩恵と意志とを知って自らの心、自らの意志を神の意志に一致せしむる者にとって絶望ということはありません。たとえ歴史の展開が下り坂にあると判断されるような時点においても、彼は神の経綸を信じて立つことができます。立つことができるだけではありません。神は目覚めた人間をオイコノモス(家司)、すなわち、「歴史の経営をあずかる者」として選び、これに歴史進行の責任をお委ねになるのです。これが聖書の説くところの歴史観、歴史における人間の役割の概略であります。(矢内原忠雄記念講演 一九七〇年二月八日 京都会館別館。『おとずれ』45号 一九七〇年五月)