Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)
どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。
《集会のご案内》
◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)
◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半
《教会活動のご案内》
◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)
◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)
◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)
◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)
◇マザーテレサ写真展企画
お問い合わせは、
au 090-9935-7053
まで。
上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。
なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。
ゆうちょ銀行
記号12110 番号346951
なまえ マツモト マツヨ
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 09/28/2025 at 15:51, by matsumoto
言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。(申命記31章2節)
◆はじめに…先週の23日(秋分の日)、秋の訪れを感じたくて「彼岸花の名所」を検索したところ、新見南吉記念館がヒットしたので出掛けて来ました。恥ずかしながら新見南吉については名前の他は知らなかったのですが、児童文学作家で、代表作『ごんぎつね』があり、小学校の国語の教科書にも掲載されています。また、数々の詩作もしており、『明日』という詩が目に止まりました。花園みたいにまつてゐる/祭みたいにまつてゐる/明日がみんなをまつてゐる/草の芽、あめ牛、てんと虫/明日はみんなをまつてゐる/明日はさなぎが蝶になる/明日はつぼみが花になる/明日は卵がひなになる/明日はみんなをまつてゐる/泉のやうにわいてゐる/らんぷのやうに点つてる。
◆613番目(結び)の戒律…今日のテキストは、トーラー(律法、モーセ五書)における最後のミツヴァ(戒律)で、申命記31章19節「自分のためにこの歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教えよ」という命令を含む箇所です。これは伝統的に「トーラーを書き写すこと」と解釈されています。仏教に「写経」がありますが「写経は、仏さまの「経」を一字一字「写」しとり、その正しい教えをしっかり受け止め、こころを整える行です。自ら写経をすることによって浄土の教えを知り、より心のこもったお念仏を称える助けとすること」(浄土宗総本山知恩院HPより抜粋)のために行うのに対して、モーセが自らの生涯を閉じる際に命じたトーラーの書き写しは、「『私の祖先はモーセからトーラーを受けた』と言うだけではなく、それを受け継ぎ、世代ごとに確認する歴史的な営み」、すなわち主とユダヤ民族との間の愛に基づく契約(約束)の永続的な更新の営みと言えます。
◆私たちの故郷…トーラーはユダヤ人にとって“持ち運び可能な故郷”と呼ばれています。私たち信仰者にとっての根源的かつ霊的な故郷は“エデンの園”でしょう。そこはまさに“パラダイス”です。律法の成就者(マタイ5章17節)なるイエス様は、地上生涯を十字架で終える際、七つの御言葉を語られ、その第二の御言葉は、「まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイス(=ヘブル語訳でエデンの園)にいます」(ルカ23章43節)でした。律法の言葉が、霊を宿し肉をまとった神の子なるイエス様が、私たちに近づいて来られ、私たちとともにおられるところ、そこが私たちにとっての故郷であり、パラダイスであり、エデンの園です。それは私たちが生きている“きょう”の瞬間です。
◆結び…きょう、私たちとともにおられるイエス様は、明日も、そしていつまでも私たちの帰りを待ち、ともにおられる方です(ヘブル13章8節参照)。
Posted on 09/21/2025 at 15:35, by matsumoto
きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている(申命記29章10節)
◆はじめに…先週の金曜日、眞津代牧師が、知り合いのT牧師のお誘いで、日本に移住して来たメシアニック・ジューの方のお話を聞きに行ってきました。1894年に創設されたCPM(チョーズン・ピープル・ミニストリーズ)という宣教団体の日本支部が2022年に誕生し、3日間無料で宿泊できるゲストハウスを運営しながら、日本を訪れるイスラエル人(年間約6万人)への宣教を行なっており、さらに展開することがミッションだそうです。地の果てである日本で、ユダヤ人に福音の種が播かれ、イエス様の永遠のいのちが芽生えるよう、心から祈ります。
◆新年を前にして…ユダヤ暦において、明日22日(月)の日没から新年(ローシュハシャナー)、つまりお正月になります。その新年を迎える直前の安息日に朗読される聖書(トーラー)の箇所が、今日のテキストの申命記29章10節-30章20節になります。そしてそのトーラーに関連した預言書の箇所(ハフタラー)も朗読され、イザヤ61章10節-63章9節になります。それに加えてメシアニック・ジューの集会では新約の箇所(ブリット・ハダシャー)が朗読されます。ルカ4章16節-21節もそのひとつです。イエス様がイザヤ書61章を朗読した箇所です。「貧しい人に福音を伝えるために主が油を注がれ、わたしを遣わされた。捕われ人に赦免を、盲人の目が開かれることを、しいたげられている人を自由に、主の恵みの年を告げ知らせるために(…)きょう、聖書のみことばが実現した」と。
◆みな、主の前に立っている…きょう、この瞬間、私たち一人ひとり、自由な者として主の前に立っています。過去にどんな者であっても、現在、どんな者であっても、そして将来、どんな者であろうとも、ただ主の恵みを受けた赦された罪人として、主の前に、共に立っているのです。はじめにお話しましたメシアニック・ジューの方が、CPMのホームページ内のYouTubeでメッセージをしている動画があり、「福音(良き知らせ)は肉(身体)を通して表現されるもの」と語られていました。ヘブル語で肉は“בשר (バサール)”で、福音は“בשורה (ベソラー)”で、福音の中に肉(ベイト、シン、レーシュ)が含まれていることから、ことば(福音)が肉となった、つまり受肉した福音としてのイエス様を私たち一人ひとりが証しするよう使命を託されていると言うことです。
◆完全無欠でなく欠け、傷ある者として…その私たちは欠けと傷のある者です。そしてその私たちの作者は創造主です。その私たち一人ひとりを主は御許に呼び寄せ、そして喜んで遣わされる方です。
◆結び…イエス様から愛されているこの身丸ごとで共に生きよ、そう主は語られています。
Posted on 09/15/2025 at 06:32, by matsumoto
あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。(申命記26章11節)
◆はじめに…毎日、職場への通勤時に黙想タイムを持っています。その日の一瞬一瞬が、主が創造して与えて下さる素晴らしい瞬間だと言うことを確認して後、出勤しています。身体的な疲れと精神的緊張感から起こるネガティブな感情を、主によって、毎日、御霊の実である喜びの感情に造り変えて頂いています。気持ちを整えて職場に行くと、仕事はハードですが、重症心身障害者の通所利用者との関わりを通して励まされ、今日も一日“良かった”と、創造の主に感謝して、その日を終えています。
◆喜びは幸福の10倍…申命記26章11節は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地に導いてくれたことへの記念です。神が与えて下さった祝福を喜び、レビ人や在留異国人と共に分かち合うことを奨励しています。ギリシャ人哲学者のアリストテレスは、幸福こそがすべての人間が目指す究極の善である(『ニコマコス倫理学』)と述べましたが、旧約聖書(主にトーラー)で幸福(アシュレイ)は、その中心的な価値ではありません。喜び(サメハ)という言葉は、幸福の約10倍、登場します。つまり、“喜び”がトーラー(特に申命記)の根本的なテーマの一つです。なぜ喜びが幸福よりも重要視されるのでしょうか?
◆個別ではなく共有…詩篇1篇1-3節に、トーラーに従って生きる人に与えられる、穏やかで祝福された幸福な人生が描写されています。木のように根を張り、過ぎ去る風や気まぐれに吹き飛ばされることはなく、豊かに実を結び、堅固に生き、繁栄する。しかし、幸福とは個人の心の状態です。他方、喜びは個人に関するものではなく、私たちの共有(共鳴)に関するものです。申命記12章6-7節、16章11節、そして26章11節にあるように、分かち合う喜びです。それは私たちが一人で経験するものではありません。そして喜びは、家族、同胞にとどまらず、社会的弱者、そして異国人にまで拡がり、共有されるものなのです。
◆喜びの効果…『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J・D・サリンジャーがかつて「幸福は固体であり、喜びは液体である」と言いました。喜びは社会的な感情であり、他者と一体になったときに感じる高揚感であり、孤独からの解放です。
◆イエス様と喜び…イエス様はたとえ話で、失った一匹の羊を見つけた時、失った銀貨を見つけた時に、見つけた人は、友だちや近所の人々と“いっしょに喜ぶ”でしょうと語られています(ルカ15章4-9節参照)。喜びは隣人と分かち合うことで波紋のように拡がって、天に届き、御使いたちも喜ばずにはいられなくなると。
◆結び…主は、私たちの喜びを共に喜ぶために私たちのすぐ傍らにおられます。
Posted on 09/07/2025 at 16:43, by matsumoto
長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒し(=破壊し)てはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。(申命記20章19節)
◆はじめに…先週は夏休みを頂いて“森林浴”に出かけ、木漏れ日の下で、しばしリフレッシュの時を過ごさせていただきました。また、クマゼミとツクツクボウシの合唱が響いていて、記録的猛暑の夏の中にも秋の訪れを感じました。
◆破壊してはならない…今日のテキストは、イスラエルの民がカナンの地に入り、町々に対して包囲戦を挑む際に、「果樹を切り倒してはならない」という主の御言葉です。これは戦時においての原則ですから、あるラビはこれを広く解釈し、平時においても適用するよう勧めています。さらにマイモニデスは、不必要な破壊行為を広義に解釈して「これは木に適用されるだけでなく、器を壊したり、衣服を引き裂いたり、建物を破壊したり、水源を塞いだり、食物を破壊的に無駄にしたりする者も、バル・タシュチットの戒律に違反する」としました。
◆母鳥を去らせよ…また申命記には、ひな鳥を母鳥と一緒に連れて行くことを禁じる戒律もあります(申命記22章6-7節)。ナフマニデスは、これも種の保護に基づくものだと見ています。聖書は一部の動物を食用とすることを許していますが、絶滅させるまで捕獲してはいけないと告げています。総じて今風に言えば「SDGs(持続可能な開発目標)」ということになるでしょう。
◆すべて神の所有物…19世紀の賢人サムソン・ラファエル・ヒルシュは聖書の律法における環境保護に関する規定ついて「人類に示すのと同じ敬意を、あらゆる生き物、すべてのものを育み支える大地、そして動植物の世界に示さなければならない」という原則を表していると述べ、「彼らはあなた方に、すべての生き物を〝神の所有物〟とみなすように求めています。何一つ破壊してはならない。何一つ乱用してはならない。何一つ無駄にしてはならない。すべてのものを賢く用いなさい。…すべての生き物を被造物の家のしもべとみなしなさい。」
◆イエス様のバル・タシュチットの精神…「不必要な破壊行為の禁止」は、神様が造られた世界と命を大切にするという原則に基づくものです。イエス様は、神の創造物だけでなく、特に社会の最も弱い立場の人々への配慮に焦点を当て、病人を癒し、貧しい人々に手を差し伸べました。これは、まさに神が与えた生命と尊厳を破壊から守る究極的な行為と言えるでしょう。そして人間の罪と破壊から世界を贖う、究極の愛を示すイエス様の十字架によって成し遂げられたのです。
◆結び…主は、私たちに「破壊」とは全く無縁の、毎月実を結ぶ命の木が茂る新天新地を備えておられ、そこへ入る通路(門)を啓いてくださっています。
Posted on 08/24/2025 at 20:29, by matsumoto
見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。(申命記11章26節)
◆はじめに…『人間の五感は、まず聴覚が生まれ、死んでいくとき最期まで残っているのも聴覚だと言われています。人間は世界を、まず聞きながら生まれる。そしてその名残りを耳にしながらこの世界から去っていくのです。聴覚が生まれたとき胎児は外界の音はほとんど聞こえない。聞こえるのは母親の心臓音、血流音、胃腸音、そして母親の声。それはどんな風に聞こえるのか。こもった低音で共鳴する振動のように聞こえる。ボーカロイドの音を水中で聞いてピッチが不安定になって揺らぎの音のように聞こえる』(『高橋源一郎の飛ぶ教室』より)。
◆「見る」は「聞く」こと…今日のテキストは、「見よ」で始まりますが、実は「聞く」ことがテーマです。そもそもユダヤ教は視覚ではなく音(聴覚)の宗教であり、見るのではなく聞く宗教であり、形象ではなく言葉を重視する宗教です。もちろんキリスト教も同様です。主は燃える柴の中からモーセに呼びかけました。『聞く』ことが最も重要なことだと誰よりも良く知っているモーセが、なぜ「見よ」と語っているのでしょうか。旧約聖書で視覚を表す動詞や比喩を用いている場合、実際には全く見られない何か、むしろ聞こえた何かを指していることが多いのです。イザヤが「見た」幻は、叫び声、音、言葉、宣言であり、光景や情景、象徴ではありません。またエレミヤも幻でアーモンドの木を「見て」いますが、重要なのは木を見た目ではなく、その名の音です。ヘブライ語でアーモンドの木を意味する「シャーケード」は「(主が)見守る」という意味です。
◆「祝福」と「のろい」…今日のテキストは「祝福」と「のろい」を見ること、すなわち聞くことを私たちに促しています。そして「ゲリジム山に祝福、エバル山にのろいを置く」(申命記11章29節)と語られています。民に「祝福」か「のろい」かの選び取りと、契約更新の儀式がゲリジム山とエバル山の谷間のシェケムで行なわれました(申命記27章参照)。レビ人の宣言と民のアーメンの声が谷間に響き渡り、母親の心臓音、血流音のように心に共鳴したのではないでしょうか?
◆ゲリジム山とエバル山の谷間で…そのシェケムは以前、アブラハムが召命を受け、礼拝を捧げた地(創世記12章1-7節)であり、後にイエス様が一人のサマリヤ人女性に、ご自身がキリストであることを啓示した地(ヨハネ4章4-42節)です。アブラハムもサマリヤ人女性も、主の御声を聞き、主との語らいによって全く新しいいのちを生き始めたのです。主の御声を聞くことで、私たちも日々、祝福された新しいいのちに生かされるのです。
◆結び…主の祝福の宣言と、決して渇くことのない生ける水を与えてくださるイエス様に委ねて新しい一週間を共に歩んで行けるよう祈ります。