Posted on 10/14/2018 at 18:47, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしの心だ。きよくなれ』(イエス・キリストの生涯 その39)(2018.10.14)

 

 

さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。(ルカによる福音書5章12-13節)

  • はじめに…イエス様のことばに従って真昼間に網をおろしたところ大漁となり、その後、何もかも捨ててイエス様に従ったペテロたち。今日は、その直後の、いやしの出来事です。
  • 『あん』…つい先日、女優の樹木希林さんが亡くなられましたが、その樹木希林さんが主演した映画『あん』を数年前に観ました。どら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた中年の千太郎(永瀬正敏)のところに貼り出してあった求人募集をみて、働くことを懇願する老女、徳江(樹木希林)が現れ、粒あん作りを任せることに。徳江の作る粒あんは美味しく、店は行列ができるほどの繁盛店に。だが、店のオーナーは徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつける。そして客足も途絶え、とうとうお客は中学生のワカナだけに。それを察した徳江は店を辞め、ハンセン病感染者を隔離する施設に帰って行く…。
  • 隔離政策…ユダヤ教の共同体においても、らい病(ツァアラト)の宣告を受けた者は、隔離されました。しかも髪の毛を乱し、目から下の顔の部分を覆い、歩くときは「私は汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。家族に近づけないだけではなく、神殿(幕屋)に入ることができず、霊的祝福を受ける機会が奪われました。そんな絶望状態に追い込まれたのです。
  • 生きる意味がある…再び『あん』ですが、映画の中で徳江は、次のように語りました。「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれて来た。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味があるのよ」
  • わたしの心だ。きよくなれ…イエス様は、共同体から隔離されたツァアラトの人に触れ、そして声を掛けられます。「わたしの心だ。きよくなれ」と。ヘブル語では“ハーペツ アノーキ テハール”「欲している、わたしは。あなたはきよくなれ」(直訳)「喜ぶ、わたしは。あなたは光り輝け、透き通れ」(筆者私訳)。黙示録の最後にある新天新地、聖なる都の“水晶のように光るいのちの水の川”(黙示録22章1節)のイメージを彷彿させられます。
  • 結び…主イエス様が御手を触れ、喜びの御声を掛けて下さいます。
Posted on 10/10/2018 at 19:37, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『人生を変えるイエス様のことばの力』(イエス・キリストの生涯 その38)(2018.10.8)

 

 

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカによる福音書5章5節)

 

  • はじめに…ペテロは、悪霊を追い出し、病いをいやされるイエス様を見ました。イエス様のことばの力に驚き、そして何もかも捨てて従いました。「おことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ福音書5章5節)と、イエス様のことばに従ったペテロの人生は大きく変わりました。ペテロはいのちを選んだのです。

 

  • 深みに漕ぎ出して…ペテロの舟に乗り込み、少し陸から離れたところで群衆に話をされたイエス様。話し終わって、今度はペテロに話しかけます。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」(ルカ福音書5章4節)。一晩中漁をして、何一つとれず、網を洗う、つまり明日の漁の準備をしていたペテロにとって、あまりにも非常識なことだったのではないでしょうか。それでもペテロは「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と、イエス様のことばに従います。非常識と思えることばに従ったペテロは、大漁という超常識を体験しました。

 

  • 罪深い人間です…この超常識の出来事は、ペテロの心をすっかり変えてしまいました。今までイエス様のそばにいたペテロは、イエス様にひれ伏すことはありませんでした。この大漁という出来事を通して、ペテロの霊の眼が開かれ、イエス様がメシアであることを知ったのです。イエス様のことばの力を体験したのです。それは主との出会い、いのちとの出会いです。

 

  • 結び…主と出会う時、光が照らされ、私たちの心の闇が分かります。罪が分かります。イエス様は、その罪を赦し、いのちを与えるために、私たちのところに来て下さいました。霊の眼が開かれ、イエス様のことばの力を体験する一週間となりますように(マタイ4章4節)

 

Posted on 10/07/2018 at 01:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『全能なる主イエス様の権威』(イエス・キリストの生涯 その37)(2018.9.30)

 

 

イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。(ルカによる福音書4章39節)

 

  • はじめに…ナザレの会堂で「捕らわれ人には解放を告げるために遣わされた」と語られたイエス様は、ナザレからカペナウムに行かれ、会堂に入り汚れた霊につかれた人を、その悪霊から解放されました。いずれも安息日の出来事です。その後、ペテロの家に入り、ペテロのしゅうとめめの病をいやされました。私たちも様々な物や事に縛られています。イエス様はそのような捕らわれから解放するために降って来られました。解放は安息、ひと息つく憩いの出来事です。

 

  • 安息日の出来事…カペナウムの会堂からシモンの家は見えているほど近いところにあります。大人の歩幅で50歩ほどです。会堂を出てシモンの家に行かれたイエス様は、ひどい熱で苦しんでいるシモンのしゅうとめに歩み寄り、熱をしかりつけられました。すると彼女はすぐに立ち上がり、働き始めました。それを見ていたシモンや他の人々の驚きと喜びは、どれほどだったでしょう。

 

  • 夕暮れ時の出来事…日が暮れるということは、この日、安息日が終わったことを意味します。ユダヤでは夕方から新しい一日が始まるからです。これは「夕があり朝があった」(創世記1章5、8、13節他)という天地創造の過程に由来しています。そして神が御業を終え、休まれた日を安息日として定められました。このことからイエス様の行為は律法違反ではありません。束縛の中にいる人々に対して放っておかれず、ひとりひとりを大切にされました。それは本来の安息日の意味の回復であり解放です。死ではなくいのちを与えようとされる主の愛の姿です。私たちを取り囲む様々な束縛から私たちを解放し、生きる者として下さいます。

 

  • 結び…「すべて疲れた人(束縛されている人)、重荷(規則や人の作ったきまり)を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(安息、ひと息つかせて)あげます」(マタイ11章28節)主の祝福を祈ります。
Posted on 09/23/2018 at 20:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『全能なる主イエス様の権威』(イエス・キリストの生涯 その36)(2018.9.23)

 

 

イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。(ルカによる福音書4章35節)

 

  • はじめに…明日24日の日没からユダヤ3大祭りのひとつ“仮庵の祭(スコット)”が始まります。ちょうど美しい満月が闇夜を照らす“中秋の名月”のときです。現在のイスラエルでは庭やベランダに簡易な小屋(スカー)を作って、お祝いをします。
  • 会堂で教えられる主イエス様…先週のテキストでは、イエス様が郷里ナザレにある会堂で預言書イザヤ61章を朗読され、その後、奨励のメッセージ(異邦人の救い)をされ、会衆の怒りを買い、崖から突き落とされそうになった出来事でした(ルカ福音書4章16-30節)。今日のテキストはその後、カペナウムに下り、そこの会堂での出来事(悪霊からの解放)です。イエス様の“ことばに権威があり”人々は驚いたとルカは記しています(同32、36節)。ナザレの人々はイエス様のメシヤ性(権威の源)に対して霊の耳が閉ざされていましたが、今日のカペナウムの会堂において、汚れた霊(悪霊)はイエス様のメシヤ性を知っており、滅ぼされるのではないかと、恐れを抱いていました(同34節)
  • 悪霊と全能の神…悪霊は自らが“滅ぼす”ことを使命としているゆえに、自らが滅ぼされることに対して非常な恐れを持っています。ゆえに自己保身のために、あらゆる手段を講じます。相手を滅ぼすことのみならず、貶(おとし)めたり、ことば巧みに騙したり、同情を買うように振る舞ったり、あるいは、あたかも全能者であるかのように自らの力を誇示したり…。悪霊はヘブル語で「שֵׁד(シェド)」。創造主なる神の呼び名に「エル・シャダイ」(全能者なる主)という名がありますが、この「全能者」はヘブル語で「שׁדּי(シャダイ)」。つまり悪霊は、全能なる主に限りなく近い存在に見えるけれども、ただ一点、“י(ヨッド)”が欠けていることで、全能とはまったく程遠い存在なのです(マタイ5章18節参照)。私たちも悪霊の攻めに遭うことがあるでしょうけれど、全能なる主イエス様の愛によって害されることはないのです。
  • 結び…主イエス様は、この仮庵の祭のとき、私たちをみことばの権威によって守り、祝福し、恵み豊かに活かしてくださるお方です(ローマ8章31-39節参照)
Posted on 09/16/2018 at 13:10, by matsumoto

『帰りを待っておられる神』主日礼拝メッセージ要約(イエス・キリストの生涯 その35)(2018.9.16)

 

 

みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。(ルカによる福音書4章22節)

 

  • はじめに…ユダヤからサマリヤを通ってガリラヤへ行かれたイエス様。そこで大歓迎を受け郷里のナザレへ。人々は歓迎したものの、一変し、拒否してしまいました。
  • 聖書のことばが実現…イエス様は安息日に会堂でイザヤ書61章1-2(前半)節を朗読され、「今、耳にしたとおり、このことばが実現した」と言われました※。このみことばはメシア預言です。これを聞いた人々は、自分たちをローマの圧政から救い出してくれる方だと思う一方で、「あれはヨセフの子ではないか」とささやく人もいました。
  • イスラエルの民から異邦人へ…イエス様はエリヤやエリシャについて語られます。イスラエルにききんが起こった時、エリヤは異邦人のやもめのところに遣わされました。またエリシャによってイスラエルにいる重い皮膚病の人ではなくシリヤの皮膚病の人だけがきよめられたこと。これは神がイスラエルではなく異邦人を祝福されているということです。これを聞いたナザレの人々は怒り、イエス様を崖から突き落とそうとしました。この出来事はイスラエルの民の心を表わしています。「この方はご自分の国に来たのに民は受け入れなかった」(ヨハネ1章11節)
  • 父なる神の涙…「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子とされる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。アダムとエバは罪を犯したため、エデンの園を追放されました。父なる神は、この事以来、痛みをもって人々がご自分のもとへ帰って来ることを忍耐をもって待っておられます。そして、ひとり子イエス様を世に遣わされ、十字架の死によって和解の愛を表わされ、また帰る道を示されました(ヨハネ14章6節)。しかしユダヤの人々はイエス様を拒否しました。父なる神の涙は溢れ流れ大河となっています。
  • 結び…ユダヤ人にも異邦人である私たちにも、父なる神は「帰っておいで」と声をかけて下さいます。滅びではなく、いのちを与えるために痛みと涙をもって(申命記30章19-20節参照)

 

※ユダヤ教の会堂で朗読される聖書の箇所は1年を通して決まっています。トーラー(モーセ五書)の最初の巻である創世記から順に読み進められ、仮庵の祭の後のシムハット・トーラー(トーラーの喜び)の日に最後の巻の申命記が読まれ、再び創世記に戻ります。また、トーラーとともに関連する預言書(ハフタラー)も一緒に朗読されました。

 

昨日の安息日(15日)のユダヤ会堂の聖書日課は、トーラーは申命記31章、ハフタラーはホセア14章2-10節(新改訳聖書では9節まで)、ヨエル2章15-27節(またはミカ7章18-20節)でした。

 

今日の聖書のテキストで、イエス様が朗読されたハフタラーは、イザヤ61章(イザヤ61章10節-63章9節)ですが、この箇所が朗読されるのは、ロシュ・ハシャナ、つまりユダヤの新年の直前の安息日に読まれることになっています。ちなみに、このときのトーラーの朗読箇所は、申命記29章10節-30章20節です。

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