Posted on 10/06/2019 at 09:18, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主を認め、ゆだねる』(イエス・キリストの生涯 その81)(2019.10.6)

そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」(使徒の働き12章11節)

  • はじめに…9月22日から24日、私たちは壱岐という島へ行ってきました。2001年から2008年まで、島の教会に牧師として仕えたところです。10年ぶりの友人たちとの再会は想像以上に感動的であり、熱い歓迎のもてなしに涙が溢れました。台風17号の影響で私たちの予定は大幅に変更になったのですが、それでも思いがけない喜びを体験することが出来、とても良い旅となりました。その旅を通して、すべて主が私たちを守ってくださったことであることが分かりました。牢に入れられたペテロは牢から救い出された時、幻と思っていたのですが、主が御使いを遣わしてくださった、主の恵みであることが分かった、と告白しています。
  • 捕らえられたペテロ…使徒たちによって、多くの人々がイエス様を救い主と信じるようになりました。その反面、それをいぶかるユダヤ人も多くいたのです。ヘロデ王(ヘロデ大王の孫)は使徒ヤコブを捕らえ、ざん首しました。この事を多くのユダヤ人が喜んだので、次にペテロを捕らえ、牢に入れてしまいました。4人の番兵のうち2人は、牢の中に入りペテロの両側に行き、それぞれペテロの手と兵士の手を鎖でつなぎ、他の2人は牢の外で見張るという厳重な警戒ぶりでした。そのような状況下であるのに、ペテロは牢から出ることが出来たのです。それは主が遣わしてくださった御使いの働きによるものでした。
  • ペテロとヘロデ王…御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ていると思っていたペテロでした(使徒12章9節)。しかし牢から出ることが出来た時、主が御使いを遣わし、救い出してくださったことが分かりました(同11節)。主がしてくださったことを認めた時、ペテロはいのちを得ました。一方、ヘロデ王は、この出来事を知り、不思議さを感じるどころか、ペテロを逃がした番兵たちに対して怒り、いのちを奪ってしまいました。ヘロデ王は主を認めなかったのです。その結果は死でした。
  • 結び…壱岐の島に行く前、主は私たちに語られました。「その地に行って、楽しみ喜びなさい。そこで新しいことを示そう」と。台風にはばまれたように思いましたが、主が語ってくださった言葉を受け取っていたので、必ず壱岐に行ける、と安心していました。台風の風で揺れるホテルの中で、私たちは主を認め、ゆだねました。そして素晴らしい旅を主から与えられました。「あなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ、主が成し遂げて下さる」(箴言3章6節)主の祝福をお祈りします。
Posted on 09/15/2019 at 08:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『どんな状況にも主の御手がある』(イエス・キリストの生涯 その78)(2019.9.15)

そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。(使徒の働き11章21節)

  • はじめに…9月5日(木)、名古屋の五反城(ごたんじょう)カトリック教会に行ってきました。そこでマザー・テレサの召天22年目を覚えるミサがささげられました。イエス様に仕えるよえに極弱の人々に仕えたマザー・テレサは、インドのみならず、世界中の人々にイエス様の愛を語りました。そのような大きな働きをしたマザーでしたが、インドに住み初めの頃は、地元の人々からは受け入れられず、迫害さえ受けました。そのような状況下にありならがもマザーを受け入れる人と、一人また一人と出会い、やがて多くの人々から受け入れられ愛されるようになったことは周知のことです。そこにはマザーを通して救いの御手を伸べておられる主がおられました。主はマザー・テレサという助け人を通して、ご自身の愛を現されました。
  • 散らされた人々…ステパノの事件後、エルサレム教会は迫害を受け、弟子たちはユダヤ人共同体のある地に散って行きました。フェニキア(レバノン)、キプロス(バルナバの故郷の島)、そしてダマスコの次にユダヤ人が多く居住しているアンテオケ。散らされた地で弟子たちはイエス様は造り主であり、罪を赦された神であることを語りました。
  • アンテオケの地…フェニキヤやキプロスではユダヤ人以外の人には福音を語らなかったのですが、アンテオケではユダヤ人以外の人にも語りました。アンテオケは東西を結ぶ交通の要所であり、多国語を話す人が多くおり、経済は豊かでしたが罪と偶像に満ちていました。そのような地に住む人々に主の御手がとどまったたので大勢の人々がイエス様を信じ、主に立ち返りました(21節)。さらに、バルナパを送られました。バルナパは「慰めの子」と言われている、聖霊に満ちた人です。罪と偶像に満ちている地に住む人々は、一旦はイエス様を信じても環境や習慣に惑わされて主から離れてしまう条件がそろっている地です。だからこそ、主は人々を慰め励ますためにバルナパを送られました。
  • どんな状況の中でも…異邦人の心を開き、福音を受け入れられるように準備された主。惑わしの多い環境にあって、主を見上げ続けることができるように助け人を送られた主。私たちの弱さを知っておられた倒れないように、また主の御手から迷い出ないように、いつも慰め励まして下さる主。アンテオケの教会はユダヤ人と異邦人が混在(共生)する教会となりました。
  • 結び…主は、私たちの心を整えて、主のことばを受け入れることができるようにして下さっています。また、助け人も備えて下さっています。安心して一歩ずつ歩ける一週間となりますようお祈りします。
Posted on 09/08/2019 at 17:02, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主の愛に包まれたひとりの人間として』(イエス・キリストの生涯 その77)(2019.9.8)

するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。(使徒の働き10章26節)

  • はじめに…先月NHKスペシャル(BSプレミアム)で放映されたブルースリーに関する番組の中で、ブルースリーがインタビューを受けるシーンがありました。「あなたは中国人? それともアメリカ人?」と聞かれ「自分は人間だ。偉そうに語るつもりはないが、天の下、人類はひとつの家族だ」と答え、その言葉がとても印象深く残っています。
  • レッテルを貼る…私たちは「あの人はああいう人だ」「この人はこういう人だ」などと断定的に評価し、一方的に整理分類してしまいがちです。一旦、そのようにレッテルを貼ると、なかなかそれを剥がすことができなくなります。人や世界を観る目が固定してしまいます。ですから別の視点(視座)を持つ必要があります。
  • 出会い…今日のテキストは、ペテロとコルネリオの出会いです。ペテロはヨッパに、コルネリオはカイザリヤにいました(約50㎞、春日井―郡上間の距離)。それぞれが祈る中で、御使いが二人に幻を見せ、出会いを導かれ思いがけない出会いを体験することになったのです。その出会いでペテロは幻の霊的な意味を悟り、異邦人への福音の門が開かれたのです。異邦人に対する偏見、差別意識が打ち砕かれたのです。
  • 生活の場で…ペテロとコルネリオの出会いと同様に、日々の暮らしの場において思いがけない出会いがあります。その出会いを通して主は、私たち一人ひとりをかけがえのない存在として分け隔てなく大切に接し、ケアし、それぞれを霊的に成長させてくださり、喜びと平安で満たしてくださいます。
  • 結び…世界は悲しみと不安で満ちています。偏見や差別が満ちています。しかし、その悲しみと不安な思いを主が顧みてくださり、出会いを与えてくださり、私たちの内側に永遠の落ち着き場所を備え、喜びと平安で満たしてくださいます。イエス様は、私たち一人ひとりを、かけがえのない大切な人として地上生涯の最期まで、そして御国において永遠に、主の愛で包んでケアしてくださいます。
Posted on 09/01/2019 at 19:29, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『新しい人になる』(イエス・キリストの生涯 その76)(2019.9.1)

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒の働き9章4-5節)

  • サウロという人…ステパノが石打ちの刑に処せられている時、サウロはそこにいました。サウロはヘブル語で、ラテン語ではパウロといいます。父親は天幕作りの職人でそれを習っていたようですが、とても頭の良い人でした。聖書の暗記大会ではいつも一位を取るほどで律法を忠実に守って生きていました。そのため“その道の者”(使徒9章3節)と呼ばれるキリスト者を迫害することにも熱心でした。
  • ダマスコ途上…頭の良いサウロはキリスト者が大勢集まっているダマスコ(現在のシリア)に行き、その道の人々を捕えようとして出かけます。その途上で復活の主イエス様が彼に現われました。「サウロ」とイエス様は呼びかけられます。
  • 新しい人となったサウロ…目が見えなくなったサウロは三日間、飲まず食わずで過ごしました。サウロは三日間、今まで律法主義になり真理を見ることができなかった自分自身、つまり古い人との決別の時をイエス様は与えられました。そしてアナニヤを通して再び目が見えるようになった時、サウロは新しい人に生まれ変わりました。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかられました。そして三日目に復活されるまでの間、よみに下り、すべての暗闇、罪と戦い勝利されました。サウロは聖霊に満たされ、主イエス様の十字架と復活、そしてイエス様は救い主であることを宣教する人へと造り変えられました。
  • 結び…サウロは目が見えなくなった三日間、恐怖と不安の中にいたかも知れません。何もすることができない全くのお手上げ状態、無力さの極みです。そのどん底にイエス様は御手を差し伸べて下さり、解放と平安を受ける新しい人として造り変えて下さいました。私たちをとりまく問題は、無遠慮に私たちの目や心に押し入ってきます。そのような時、私たちは目を閉じ両手を広げて問題を手放しましょう。その時、イエス様は微笑んで私たちを包み新しい人として抱いて下さいます。
Posted on 08/25/2019 at 09:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『散らされた地で“隣人愛”に生きる』(イエス・キリストの生涯 その75)(2019.8.25)

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。/敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。/サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。/他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。/ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。/群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。/汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。/それでその町に大きな喜びが起こった。(使徒の働き8章1-8節)

  • はじめに…最近、韓国との関係がぎくしゃくしています。政治問題と歴史問題が絡み合い、経済、安全保障、そして民間の文化交流にまで暗い影を落としています。嫌韓、反日ムードをマスコミが煽り、拍車がかかっているようにみえます。日本と韓国だけの問題ではなく、世界中で国と国、民族と民族の間に亀裂が生じています。あるいは香港のように政府と民衆の対立があります。このような中で、私たちはどのように今を生きていけば良いのでしょうか?
  • 迫害のただ中で…教会内に生じた問題解決のために立てられた七人の信仰者の第一人者だったステパノの殺害に端を発し、教会に対する迫害が激しくなりました。その迫害を逃れるため、使徒たち以外の者は各地方へ散らされました。散らされた人たちは、ただ怯えるのではなく、みことばを伝えて各地を巡り歩いたのでした。風に吹かれて飛んでいったタンポポの種のように。
  • サマリヤに逃れたピリピ…そのうちの一人、ピリピはサマリヤへ下って行きました。当時、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、避けていました。逆も真でサマリヤ人はユダヤ人に対して反感を抱いていました。ピリピは、そのサマリヤへ行き、イエス様のことを話して歩いたのです。話すだけではなく、賜物を用いて、一人ひとりと深く接しました(使徒8章5-7節)。福音書にはイエス様が、ユダヤ人が避けて遠回りしていたサマリヤの地に入り、しかもそこで出会った女性に話しかけたことが記されています(ヨハネ4章4-29節)。また律法学者に“隣人”とは誰かを問うために、たとえ話でサマリヤ人を取り上げています(ルカ10章25-37節)。その出来事や逸話が、サマリヤの人たちの間に知れ渡っていたのかも知れません。イエス様の生き様、愛に満ちたことばの先立ちによって、迫害によって散らされたピリピが異郷の地で受け入れられる下準備になっていたのでしょう。
  • 希望をもって隣人愛に生きる…ピリピは、不本意、不条理としか思えない場所、状況のなかにあっても、イエス様の愛の先立ちによって希望をもって語り、隣人に接しました。私たちもこの先どうなるか分からないような不穏な世界の雰囲気のなかにあっても、その雰囲気に呑み込まれることなく、イエス様の愛の先立ちによって確かな希望に包まれ、この地で臆することなく隣人愛に生きることができるでしょう。
  • 結び… ①マスコミ等の情報に惑わされることなく、イエス様に信頼して歩みましょう。②そして、すでにイエス様の愛で耕されている隣人と躊躇することなく、偏見なく関わっていきましょう。 今週、皆さんが置かれている場所で、出会う一人ひとりとイエス様の愛のなかで生き、主に栄光が帰されるよう祈ります。
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