Posted on 06/12/2022 at 16:13, by matsumoto
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5章24節) / 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。(ヘブル人への手紙11章5節)
◆はじめに…昨日、眞津代牧師の出身教会(母教会)・博多教会の名誉牧師の川内牧師が天に召されました。私たちの恩師の李天秀牧師に続いての召天の知らせでした。私が神学生時代、一緒に早天祈祷会で賛美を捧げ、祈りを捧げさせて頂いた時のことを思いだします。また、9年前のいとすぎ教会の「献堂感謝礼拝」のメッセージをして頂きました。眞津代牧師は、博多教会の開拓当初からの関わりですから悲喜こもごも、いろいろな思いが泉のように溢れ出ています。私たち後輩牧師にとっては、牧会に示唆を与えて下さった先生でした。
◆いなくなった/移された…本主日はエノクについて記されてある箇所からの学びです。創世記5章には人類の始祖アダムの系図が記されていて、「生きて(…)死んだ」が繰り返され、歴史が紡がれていきます。ところがエノクの一生は「生きて(…)いなくなった」(創世記5章24節)とあり、その引用箇所のヘブル人への手紙11章5節には「死を見ることのないように移されました」と、死んで葬られることがなかったことを伝えています。エノクは死ぬことなく天に引き上げられた、そう旧約聖書も新約聖書も告げています。それはエノクが“神とともに歩んだ”からであり、“信仰によって神に喜ばれる生活を送っていた”からだと、聖書は語っています。そしてこれは、主の再臨のときの“携挙”の保証の出来事です。
◆エノクの生涯…エノクはあの箱舟を造ったノアの曽祖父、ひいおじいさんにあたります。そして65歳のとき、息子のメトシェラが誕生しました。メトシェラが生まれた後、三百年「神とともに歩んだ」(創世記5章22節)とあります。日本で言えばちょうど年金生活を始める年齢から神とともなる生活を始めるようになった、ということです。神とともに生きる生活を始めることに遅すぎるということはありません。しかもエノクの地上での一生は365年で、他の人たちに比べると短命です。つまり信仰生活の長さが信仰の優劣(深浅)を決めるのではないということです。今日この日、この瞬間、神とともに生きること、信仰の質が大切だということでしょう。
◆結び…エノクと同様、私たちも今日、この瞬間、主に喜ばれる歩み、主とともなる歩みができるなら幸いです。
Posted on 06/05/2022 at 17:11, by matsumoto
それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記2章2節) /というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。(ヘブル人への手紙4章4節)
◆はじめに…本主日は「聖霊降臨日/ペンテコステ(五旬節/シャブオット)」です。過越の祭りから“50日目”という意味です。元来、小麦の収穫を祝う祭り(出エジプト34章22節)でした。また、この日は出エジプトの七週間後、モーセがシナイ山で創造の主と遭い、十戒を授与された日として覚えられています(出エジプト19章)。かつて壱岐の島に住んでいた時には、緑色から黄金色に色づいていく麦畑を眺めながら、収穫の喜びを“体感”していました。しかし今年はロシアのウクライナ侵略で収穫された麦が分かち合えない(輸出できない)事態になっていることを見て、聖霊を悲しませる事態になっているように感じます。主が創造のみわざを休まれ、喜びを分かち合ったのですから、プーチン氏は破壊の業を中止し、主の御前でこうべを垂れる決断が必要です。破壊と略奪ではなく、創造と分かち合いが、神の子として愛されている人間のなすべき奉仕です。
◆きょう、御声を聞く…先主日から、シリーズで約250回(約5年)の予定で、新約に引用されている旧約をテキストとしてみことばに耳を傾けています。本主日はその第2回目、創世記2章2節を引用しているヘブル書4章からみことばを学びます。私たちは主の安息に招かれています。平安に満たされて呼吸をする指定席が準備されています。インターネットで飛行機や新幹線の予約する際、空席状況を確認しますが、空席があるとホッとします。主は、私たちに霊的に安んじることのできる席を準備しておられます。その席を得る条件は、「きょう、御声を聞く」(ヘブル書4章7節)ことです。御声は「神のことば」(同12節)です。
◆両刃の剣…きょう必要な御声を、主は、私たち一人ひとりに語られます。その御声を、馬耳東風ではなく、信仰(主に対する百パーセントの信頼)を持って聴くことが大切です。神のことばと神に対する信頼は両輪であり、両刃です。頭の先から五臓六腑に深く切り込まれます。しかし私たちは、その力に圧倒され逃げ出したり、逆に軽んじ口答えしたり、あるいは信頼できずに他のものに頼ったりする弱い者です。その弱い私たちを収穫の束として懐に抱きかかえて創造主の前に置いてくださる方が大祭司イエス様です。
◆結び…私たちが最も落ち着く場所、主の御前に席を設けてくださり、今日生きるのに必要なみことばを語ってくださる主イエス様に感謝します。
Posted on 05/29/2022 at 18:31, by matsumoto
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(…)それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記1章27節、2章24節) /イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。」(マタイ福音書19章4、5節)
◆はじめに…先主日の礼拝の後、福岡の知人のところへ行き、いとすぎを梱包し、翌朝出荷、火曜日の夕方には教会に届きました。イタリヤのアッシジから持ち帰った、いとすぎの種が3メートル程の背丈にまで成長し、それが今いとすぎ教会の玄関に置かれていることに主の御心の麗しさを感じます。大小2本のいとすぎがお互い寄り添うように並んで立っている姿が何ともいとおしく思えます。
◆向かい合い、寄り添う者…本主日からは、新約聖書に引用されている旧約聖書をテキストとしてみことばに耳を傾けていきたいと思います。創造の主は、愛し、永遠の交わりを持つことを目的として人をご自身のかたち(=三位一体)に似せて造られました。当然、人自身も愛と交わりの存在です。ゆえに「人が、ひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2章18節)としてアダムとエバを造られました。「ふさわしい」とは“向かい合う者”という意味です。続く「結び合う」は“そばにいる”“寄り添う”という意味です。もちろん人は土から造られた肉的存在ゆえに、弱く頼りない存在です。それゆえに主に信頼し、主に導いてもらうことで平安に生きることができるのです。
◆結婚と離婚(、そして独身と)…この創世記のテキストをパリサイ人の試みに対する返答の中でイエス様が引用しています。パリサイ人の「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」(マタイ19章3節)という質問に対してイエス様は創世記の今日の箇所を引用した上で、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(同6節)と答えました。それに対してパリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して離別せよ、と命じたのですか」(同7節)と反論し、それに対してイエス様は「あなたがたの心がかたくななので許したのだ」(同8節)と。
◆結び…この世における現実の生活は複雑で絶えず変化しています。単純に善悪、正誤を判断することは不可能です。罪ある一人の人間として、過ちと失敗の中で「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されるイエス様の福音の光に内面を照らされて、主に造られた者同士、寄り添いながら生きていきたいと願います。
Posted on 05/23/2022 at 19:58, by matsumoto
彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる(イザヤ書66章24節) そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません(マルコ9章(44)、(46)、48節)
◆はじめに…今日、礼拝の後、福岡の知人のところへ行きます。というのは、その知人が鉢植えで種から育てた糸杉が2メートルを超えるまでに成長し、ふと私たちいとすぎ教会のことを思い出して、育った糸杉に最もふさわしい場所じゃないかと言うことで声を掛けて下さいました。それで今回、その糸杉を譲り受けるために出掛けることにしました。本物の糸杉のあるいとすぎ教会になります。
◆イザヤ書の結び…本主日でイザヤ書の学びは最後になります。最終章の66章からの学びになります。過去にイザヤ書66章の学びをしたことがありました。新会堂の起工式の翌主日2013年、9年前のことでした。『共に礼拝することを切望する私たちは、他人の不幸を喜ぶ者ではなく、不完全な者どうしが互いに和合して暮らす者(詩篇133篇1節、マルコ9章50節参照)です。そのための“教会”です。それも画一的なものでなく、多様な姿の教会(イザヤ66章20節参照)なのです。そんな教会のひとつとして、小さな“いとすぎ教会”がこの地に、主の許しのなかで存在しているのです。』と、そんなメッセージでした。今でもその思いはまったく揺らいではいないことを嬉しく思いますし、主に感謝します。
◆ゲヘナ(ヒノムの谷)の片隅で…今日のテキスト、イザヤ書の最終章の最終節66章24節をイエス様は引用しています。できれば聞きたくない、あるいは見たくない光景です。ゲヘナ(ヒノムの谷)は、エルサレムの南西に伸びる谷で、いわゆる“廃棄物処理場”でした。ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていました。また、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人を埋める場所でした。旧約聖書時代には、モレクの神への幼児犠牲が行われていました(②列王記23章10節「ヨシヤの宗教改革」参照)。1979年に、ヒンノムの谷の斜面の埋葬用洞くつで聖書本文が記された銀製の小さな巻き物2本が発見されました。その中には民数記 6章24-26節に記されている祝福のみことばが記されてありました。主は、私たちが目も耳も鼻も塞ぎたくなるような場所に近づき、呪いのことばではなく、祝福のことばをもって近づいて下さる方です。
◆結び…創造の主が私たちに祝福をもって近づいて下さっています。私たちも互いに祝福の祈りをもって互いに近づき、共に主の前に膝をかがめて礼拝する者として新しい一週間を過ごしていきたい、そう願っています。
Posted on 05/15/2022 at 19:29, by matsumoto
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65章17節) また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(ヨハネ黙示録21章1節)
◆はじめに…我が家の庭のバラが今、花盛りです。美しい花びら、芳しい香り。その一方で黒点病、ダニ、肥料過多等で葉っぱが変色したりして、一喜一憂しています。それでも新しい葉っぱが出、花芽が付き、次の開花に向けて健気に生きています。古くなった下葉は黄色くなって自ら落葉します。自ら落葉することで新しい葉に美しい花を咲かせる働きを託しています。バラを通して神様の創造の業を喜びつつ、いのちの尊さを学ばされています。
◆嫌なことは忘れない…人は、悲しかったことや苦しかったこと等、過去に経験した嫌な出来事は忘れません。これは私たちの脳が、嫌だった体験を繰り返さないように、詳しく情報を処理し次に備えようとするためです。つまり生きるためのリスク回避の手段なのです。しかしリスクを回避して生き延びるだけの人生だとしたら…。それこそ生きている意味がありません。では何のために神様は世界を創造し、人を創造したのでしょうか? そして今、過去と現在に、がんじがらめなっている私たちを、どのようにしようとお考えなのでしょうか?
◆楽しみ喜べ…神様は最初に天地創造された際、すべてをご覧になり「非常によかった(=心地よさで富んでいた/ヘブル語直訳)」(創世記1章31節)とおっしゃいました。しかし、その心地よさは、人の罪によって一転、不愉快な展開に。ルール違反、責任転嫁、そして殺人。そんな人間をあきらめることなく忍耐をもって今も関わり続けておられる主が、イザヤの預言のなかで「新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65章17節)と宣言し、「いついつまでも楽しみ喜べ(=極みまで歓喜し喜べ/ヘブル語直訳)」(同18節)、わたし(主)もあなた方を喜ぶ(同18-19節)、とおっしゃっています。主が創造してくださる新天新地は、花婿なる再臨のイエス様が花嫁なる私たちを神の家族として迎え入れてくださる神の家です(ヨハネ福音書14章2-3節参照)。この約束のみことばを確信するとき、もう人生を脅かすリスクを想定する必要はなくなります。過去の苦く辛い体験の束縛(呪縛)から解放してくれます。
◆結び…創造の主は、私たちがいのちの極みまで喜び楽しめるように、そして主ご自身、その喜ぶ私たちのいのちを喜ぶように、新しい天と新しい地の創造を確約してくださっています。