Posted on 10/21/2018 at 20:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『罪を赦す権威』(イエス・キリストの生涯 その40)(2018.10.21)

 

 

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。(ルカによる福音書5章24節)

  • はじめに…全身ツァアラトの人を癒されたイエス様は“病を癒す権威”を人々にあらわされました。再びカペナウムに戻ったイエス様は、そこで“罪を赦す権威”を持っておられることを人々に宣告されました。ユダヤ人は神殿に行き、動物をほふり、献げることにより罪が赦され、同時に神との関係が保たれると信じていました。「罪を赦すことができるのは神だけ」という信仰です。しかしイエス様は、何の犠牲もなく、ただ言葉によって『あなたの罪は赦された』と宣言されたのです。これは、後のイエス様の十字架を想起させます。イエス様ご自身が犠牲として十字架に架けられ死んだことにより、すべての人の罪は赦されました。中風の人に、そして周囲の人々に『わたしの血(十字架)によってあなたの罪は赦された』と十字架の予告を宣言されました。
  • 罪は赦された…中風の人と、その友人たちの信仰を見て『あなたの罪は赦された』と言われたイエス様。当時の人々は“罪があるから病気になる”と考えていました。しかしイエス様は、生まれつき目の見えない人に『目が見えないのは、あなたの罪でも、両親の罪のゆえでもなく、ただ神の栄光が現われるためだ』と言われ、罪と病の因果関係に否定されました。だとすれば中風の人もしかりです。“病のために神殿に入ることが禁じられる”ということは、ユダヤ人としてのアイデンティティが奪われ、また神との断絶を感じる、絶望的に辛いことです。この人もそのような心になり、自分を責め、罪責感を持ち、そして神に向かえなくなっている状況でした。イエス様は、その罪責感から解放して下さり、神に向かえない罪を赦されました。ツァアラトの人が癒された時、『神殿に行って、きよめの献げ物をしなさい』とイエス様は言われました。きっと癒された中風の人は、喜んで神殿に行って献げ物をしたことでしょう。ユダヤ人としてのアイデンティティの回復であり、霊的いのちの復活です。
  • 結び…今日、すでに私たちは、イエス様の十字架のゆえに罪赦され、神との和解が与えられています。はばかることなく愛と赦しと癒しの主なる神に近づき交わることができるのです。
Posted on 10/14/2018 at 18:47, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしの心だ。きよくなれ』(イエス・キリストの生涯 その39)(2018.10.14)

 

 

さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。(ルカによる福音書5章12-13節)

  • はじめに…イエス様のことばに従って真昼間に網をおろしたところ大漁となり、その後、何もかも捨ててイエス様に従ったペテロたち。今日は、その直後の、いやしの出来事です。
  • 『あん』…つい先日、女優の樹木希林さんが亡くなられましたが、その樹木希林さんが主演した映画『あん』を数年前に観ました。どら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた中年の千太郎(永瀬正敏)のところに貼り出してあった求人募集をみて、働くことを懇願する老女、徳江(樹木希林)が現れ、粒あん作りを任せることに。徳江の作る粒あんは美味しく、店は行列ができるほどの繁盛店に。だが、店のオーナーは徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつける。そして客足も途絶え、とうとうお客は中学生のワカナだけに。それを察した徳江は店を辞め、ハンセン病感染者を隔離する施設に帰って行く…。
  • 隔離政策…ユダヤ教の共同体においても、らい病(ツァアラト)の宣告を受けた者は、隔離されました。しかも髪の毛を乱し、目から下の顔の部分を覆い、歩くときは「私は汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。家族に近づけないだけではなく、神殿(幕屋)に入ることができず、霊的祝福を受ける機会が奪われました。そんな絶望状態に追い込まれたのです。
  • 生きる意味がある…再び『あん』ですが、映画の中で徳江は、次のように語りました。「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれて来た。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味があるのよ」
  • わたしの心だ。きよくなれ…イエス様は、共同体から隔離されたツァアラトの人に触れ、そして声を掛けられます。「わたしの心だ。きよくなれ」と。ヘブル語では“ハーペツ アノーキ テハール”「欲している、わたしは。あなたはきよくなれ」(直訳)「喜ぶ、わたしは。あなたは光り輝け、透き通れ」(筆者私訳)。黙示録の最後にある新天新地、聖なる都の“水晶のように光るいのちの水の川”(黙示録22章1節)のイメージを彷彿させられます。
  • 結び…主イエス様が御手を触れ、喜びの御声を掛けて下さいます。
Posted on 10/10/2018 at 19:37, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『人生を変えるイエス様のことばの力』(イエス・キリストの生涯 その38)(2018.10.8)

 

 

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカによる福音書5章5節)

 

  • はじめに…ペテロは、悪霊を追い出し、病いをいやされるイエス様を見ました。イエス様のことばの力に驚き、そして何もかも捨てて従いました。「おことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ福音書5章5節)と、イエス様のことばに従ったペテロの人生は大きく変わりました。ペテロはいのちを選んだのです。

 

  • 深みに漕ぎ出して…ペテロの舟に乗り込み、少し陸から離れたところで群衆に話をされたイエス様。話し終わって、今度はペテロに話しかけます。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」(ルカ福音書5章4節)。一晩中漁をして、何一つとれず、網を洗う、つまり明日の漁の準備をしていたペテロにとって、あまりにも非常識なことだったのではないでしょうか。それでもペテロは「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と、イエス様のことばに従います。非常識と思えることばに従ったペテロは、大漁という超常識を体験しました。

 

  • 罪深い人間です…この超常識の出来事は、ペテロの心をすっかり変えてしまいました。今までイエス様のそばにいたペテロは、イエス様にひれ伏すことはありませんでした。この大漁という出来事を通して、ペテロの霊の眼が開かれ、イエス様がメシアであることを知ったのです。イエス様のことばの力を体験したのです。それは主との出会い、いのちとの出会いです。

 

  • 結び…主と出会う時、光が照らされ、私たちの心の闇が分かります。罪が分かります。イエス様は、その罪を赦し、いのちを与えるために、私たちのところに来て下さいました。霊の眼が開かれ、イエス様のことばの力を体験する一週間となりますように(マタイ4章4節)

 

Posted on 10/07/2018 at 01:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『全能なる主イエス様の権威』(イエス・キリストの生涯 その37)(2018.9.30)

 

 

イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。(ルカによる福音書4章39節)

 

  • はじめに…ナザレの会堂で「捕らわれ人には解放を告げるために遣わされた」と語られたイエス様は、ナザレからカペナウムに行かれ、会堂に入り汚れた霊につかれた人を、その悪霊から解放されました。いずれも安息日の出来事です。その後、ペテロの家に入り、ペテロのしゅうとめめの病をいやされました。私たちも様々な物や事に縛られています。イエス様はそのような捕らわれから解放するために降って来られました。解放は安息、ひと息つく憩いの出来事です。

 

  • 安息日の出来事…カペナウムの会堂からシモンの家は見えているほど近いところにあります。大人の歩幅で50歩ほどです。会堂を出てシモンの家に行かれたイエス様は、ひどい熱で苦しんでいるシモンのしゅうとめに歩み寄り、熱をしかりつけられました。すると彼女はすぐに立ち上がり、働き始めました。それを見ていたシモンや他の人々の驚きと喜びは、どれほどだったでしょう。

 

  • 夕暮れ時の出来事…日が暮れるということは、この日、安息日が終わったことを意味します。ユダヤでは夕方から新しい一日が始まるからです。これは「夕があり朝があった」(創世記1章5、8、13節他)という天地創造の過程に由来しています。そして神が御業を終え、休まれた日を安息日として定められました。このことからイエス様の行為は律法違反ではありません。束縛の中にいる人々に対して放っておかれず、ひとりひとりを大切にされました。それは本来の安息日の意味の回復であり解放です。死ではなくいのちを与えようとされる主の愛の姿です。私たちを取り囲む様々な束縛から私たちを解放し、生きる者として下さいます。

 

  • 結び…「すべて疲れた人(束縛されている人)、重荷(規則や人の作ったきまり)を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(安息、ひと息つかせて)あげます」(マタイ11章28節)主の祝福を祈ります。
Posted on 09/23/2018 at 20:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『全能なる主イエス様の権威』(イエス・キリストの生涯 その36)(2018.9.23)

 

 

イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。(ルカによる福音書4章35節)

 

  • はじめに…明日24日の日没からユダヤ3大祭りのひとつ“仮庵の祭(スコット)”が始まります。ちょうど美しい満月が闇夜を照らす“中秋の名月”のときです。現在のイスラエルでは庭やベランダに簡易な小屋(スカー)を作って、お祝いをします。
  • 会堂で教えられる主イエス様…先週のテキストでは、イエス様が郷里ナザレにある会堂で預言書イザヤ61章を朗読され、その後、奨励のメッセージ(異邦人の救い)をされ、会衆の怒りを買い、崖から突き落とされそうになった出来事でした(ルカ福音書4章16-30節)。今日のテキストはその後、カペナウムに下り、そこの会堂での出来事(悪霊からの解放)です。イエス様の“ことばに権威があり”人々は驚いたとルカは記しています(同32、36節)。ナザレの人々はイエス様のメシヤ性(権威の源)に対して霊の耳が閉ざされていましたが、今日のカペナウムの会堂において、汚れた霊(悪霊)はイエス様のメシヤ性を知っており、滅ぼされるのではないかと、恐れを抱いていました(同34節)
  • 悪霊と全能の神…悪霊は自らが“滅ぼす”ことを使命としているゆえに、自らが滅ぼされることに対して非常な恐れを持っています。ゆえに自己保身のために、あらゆる手段を講じます。相手を滅ぼすことのみならず、貶(おとし)めたり、ことば巧みに騙したり、同情を買うように振る舞ったり、あるいは、あたかも全能者であるかのように自らの力を誇示したり…。悪霊はヘブル語で「שֵׁד(シェド)」。創造主なる神の呼び名に「エル・シャダイ」(全能者なる主)という名がありますが、この「全能者」はヘブル語で「שׁדּי(シャダイ)」。つまり悪霊は、全能なる主に限りなく近い存在に見えるけれども、ただ一点、“י(ヨッド)”が欠けていることで、全能とはまったく程遠い存在なのです(マタイ5章18節参照)。私たちも悪霊の攻めに遭うことがあるでしょうけれど、全能なる主イエス様の愛によって害されることはないのです。
  • 結び…主イエス様は、この仮庵の祭のとき、私たちをみことばの権威によって守り、祝福し、恵み豊かに活かしてくださるお方です(ローマ8章31-39節参照)
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