Posted on 04/10/2016 at 03:14, by matsumoto
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒の働き1章3節)
- はじめに…「世界でいちばん貧しい大統領」として知られる、南米ウルグアイの前大統領、ホセ・ムヒカ氏(80)の講演会が7日、東京外国語大学でありました。若者たちに①貧乏とは、多くのものを必要だと思ってしまう心、②新たに何かを始める勇気を持ち、何かに打ち負かされたときにまた立ち上がれ、③仲間を見つけて集まり戦え、④人間はひとりでは生きていけない。必ず他者を必要とする等々、語られました。
- ペンテコステ以前…今年のペンテコステ(聖霊降臨日)は5月15日になります。ですから、私たちはイエス様が十字架の後、復活され昇天される40日間と、昇天から聖霊降臨までの10日間、計50日間の出来事の意味に思いを馳せつつ過ごしたいと思います。
- 過越から五旬節(ペンテコステ)…ユダヤ教の伝統では、五旬節の日に、主がモーセに律法を授与した日として覚えられています(出エジプト19章参照)。また、この日にはシナゴーグで『ルツ記』が朗読されます。ボアズがルツのために落ち穂を意図的に多く残しておいたという物語です(ルツ記2章23節参照)。レビ記23章22節に「貧しい者と在留異国人のために、落ち穂を残しておかなければならない」と記されてありますが、ボアズは律法の規定をただ守るだけではなく、あわれみ(恵み)を加えたのです。また、同じくレビ記23章17節には「パン種を入れて焼かれるパン2個を持って来なければならない」とありますが、メシアニック・ジューの人たちは、これはイスラエルの民と異邦人が一つに結び合わされることの象徴、また、ボアズとルツの結婚、すなわち活けるキリストの真の教会の姿を見ています。
- 結び…過越で贖いの業をなされ、五旬節で聖霊を遣わしてくださる、天地創造の主に、世々限りなく栄光がありますように。
Posted on 04/03/2016 at 04:31, by matsumoto
写真=復活のイエス様がペテロに「わたしを愛するか」と三度問われた、ガリラヤ湖畔にある、ペテロ召命教会
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(ヨハネ福音書21章5節)
- はじめに…先主日はイースターでした。主イエス様が十字架に付けられ、3日目に墓の中からよみがえり、最初にマグダラのマリヤに出会われたのです(ヨハネ福音書20章15節参照)。
- 復活の主の第一声…復活のイエスはマグダラのマリヤに、「なぜ泣いているのですか」「マリヤ」(同15、16節)と声をかけられたのです。マリヤは、その報告をするために弟子たちが身を隠しているところへ行きました。戸が締められ、かぎが掛けられていたところへ復活のイエス様は入って来られ、(着物を捲くりあげて)手と脇腹を見せ「平安あれ(シャローム)」と言われ、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と語られたのです(同21、22節)。復活の主は、ハデス(シェオル、すなわち黄泉)の門を通り、死んだ者に福音を語り、墓の入口を開かれ、マグダラのマリヤはじめ、弟子たちに慰めと励ましのみことばを語られたのです。
- ガリラヤ湖畔で…以前ペテロは、ガリラヤ湖で網を打っていたところ、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ福音書4章19節)と声を掛けられ、すぐに網を捨てて従いました。そのペテロは今、失意落胆のなかで、再び網を手に取り、漁に出かけたのです。もとの職に戻ろうとしたのです。しかし、何も取れませんでした。そのペテロたちにイエス様は「食べる物がありませんね」「舟の右に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」(ヨハネ福音書21章5、6節)と御声を掛けられました。すると153匹の魚が獲れた、そう聖書は記しています。復活のイエス様のない生活は、良きものが何もありませんが、復活のイエス様を見出した生活は、恵みで満ちます。逆に言えば、何もない空虚な生活に、復活の主が近づいて来られ、御声を掛けてくださり、恵みを満たしてくださるということです。
- 結び…新しい月、皆さんに近づき、御声を掛け、ともに歩んでくださる復活の主を崇めます。
Posted on 03/27/2016 at 05:17, by matsumoto
写真=空の墓の前で聖書を手にガイドするバラさん
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。(ヨハネ福音書20章18節)
- はじめに…先週23日は満月でした。その日、イスラエルでは「プリムの祭り」でした。プリム祭は過越祭の1カ月前にあります。今年2016年はユダヤ暦と太陽暦とのずれ幅が大きく、過越祭の前にイースター(復活祭)を迎えることになり、過越と復活の歴史的な関連性が弱まっている感があります。
- でっち上げ裁判…先主日、イエス様がゲツセマネで祈られた姿と意味を、ともに御言葉から学びました。そこへユダを先頭に、ローマ兵たちが大挙して押しかけて来て、イエス様は捕えられ、でっち上げ裁判を受け、ピラトによって十字架刑が確定しました。ペテロは事の成り行きを見るため、大祭司の中庭(現・鶏鳴教会)へ。そこで周囲の者から「あの人の弟子でしょう」と問われると、「そんな者ではない」と否定しました。
- 十字架の七言…イエス様は十字架の横木を背負い、ゴルゴタの丘へ。そして釘を打たれ十字架に。十字架の上でイエス様は、7つの言葉を語られました。①彼らをお赦しください=赦し(ルカ23章34節)、②きょう、パラダイスにいます=救い(同43節)、③あなたの息子、あなたの母がいます =愛(ヨハネ19章26-27節)、④エリ、エリ、レマ、サバクタニ=絶望(マタイ27章46節)、⑤わたしは渇く=苦痛(ヨハネ19章28節)、⑥完了しした=勝利(同28節)、⑦わが霊をゆだねます=信頼(ルカ23章46節)。
- 復活の主…十字架で息を引き取られたイエス様を、アリマタヤのヨセフが引き取りを願い出、ニコデモが香料を持って葬りにやって来ました(ヨハネ福音書19章38-39節)。そして3日後、主イエス様は復活され、マグダラのマリヤに出会われたのです(マルコ福音書16章9節)。
- 結び…イースターから始まる新しい週、主イエス様から力を頂いて力強く証しする皆さんの歩みとなるよう、祝福して祈ります。
Posted on 03/20/2016 at 04:27, by matsumoto
写真=ゲツセマネの園のオリーブ
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ福音書26章38節)
- はじめに…先日「ナガシマスパーランド」の北側約6ヘクタールにオリーブを植えて、観光農園を作るというニュースがラジオで流れていました。1000から1500本くらい植えて、5年後にはオリーブの実を収穫し、油を絞る施設も作る計画のようです。
- ゲツセマネ(油絞り)…シオンの丘の東にオリーブ山があり、その麓にゲツセマネの園があります。二階の大広間で最後の晩餐を終えたイエス様と11弟子は、祈るためにゲツセマネへ向かいました。ゲツセマネとは“油絞り”という意味です。そこでイエス様は人類史上最大の霊的苦闘=苦祷をしたのです。まさにオリーブの油絞り器で、その実が圧し潰されるように、血が滴り落ちるような汗を流し、悲しみもだえつつ祈られたのです。イエス様は弱さを持って祈りに向かわれました。
- 自己に信頼する弟子たち…一方、ペテロを筆頭にして弟子たちは、「決してつまずきません」「死んでもあなたを知らないなどと申しません」と自信たっぷりに豪語しまた。自分に自信があり、自己に信頼する者は、祈りを軽視します。自らの弱さを持って祈りに赴かれたイエス様と天地の差があります。自らの弱さを認め、父なる神に信頼する者は、死に打ち勝ち、自らを頼りにするものは、死を前にして逃げ去るのです。
- 聖霊の油…イエス様は、弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ福音書26章41節)と語られました。言い換えれば「父なる神様から離れないよう、心の燈火を灯し続けなさい」ということです。そのためには、聖霊の油が必要なのです。その聖霊の油を弟子たち(私たちも含め)に注ぐため、イエス様は、油絞り器で圧し潰されるオリーブの実となり、砕かれたのです (イザヤ53章参照)。
- 結び…受難週、ゲツセマネで私たちの罪を負い、苦しみもだえながら祈られた主イエス様を覚えつつ過ごし、自らの弱さを持って主の前に出て、感謝と賛美を捧げる皆さんであるよう、祝福して祈ります。
Posted on 03/13/2016 at 05:08, by matsumoto
写真=鶏鳴教会からヒノムの谷を見下ろして。左側にキデロンの谷
イエスはこれらのことを話してから、目(原語は複数形)を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。(ヨハネ福音書17章1節)
はじめに…先週、私たちは横浜へ出かけ、シオンの丘の上教会の皆さんとのお交わりの時を持ちました。聖地旅行の写真やビデオを見、過越しの食事の実際を体験しました。その日の夕方、近くに住んでおられる知人宅を訪問して、鍋を囲んで旧交を温めました。そこでアキアナというロシアの少女の画集を頂きました。とても8歳、9歳の子供が描いたとは思えない絵です。
イエス様の祈り…その中にイエス様を描いた2つの作品がありました。ひとつは「Prince of Peace:The Resurrection」(平和の君 復活)と題した正面を向いたイエス様、もうひとつは「Father Forgive Them」(父よ、彼らを赦したまえ)と題した、祈っているイエス様。
栄光…その祈りの姿勢は、両手の手のひらを上に向けて、しかと目を見開いて天を見上げています。まさに今日の聖書のテキストの箇所と同じ姿勢です。そのイエス様の顔を見て、映画「天国はほんとうにある」のモデルになったコルトン君が、「このイエス様の顔は本物」と言ったそうです。祈るイエス様は天からの光を受けて輝いているように描かれています。と同時にイエス様の内側から輝きが溢れ出ています。
将来を見据える目…ところで「父よ、彼らを赦したまえ」とイエス様が祈られたのは、ルカ福音書23章34節に記されてあるように、ゴルゴタの丘で十字架につけられた時のことです。とするなら、この題は、十字架につけられたイエス様を描いて付けるべきだと言えます。天を見上げて祈るイエス様にふさわしいタイトルは「Give glory to your Son」(あなたの子に栄光を与えたまえ)でしょう。なぜ、そうしなかったのでしょうか。それは十字架を前にして、すでに“時が来た”(ヨハネ福音書17章1節)“成し遂げた”(同4節)と、先取りして祈られていることから、赦しの御業を見据えておられるイエス様の御心を捉えてのことでしょう。イエス様は天を見上げ、将来を見据えて祈られる方です。
結び…新しい週、皆さんが天を見上げ、将来を見据えて祈られるよう、祝福します。
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