Posted on 07/24/2022 at 18:55, by matsumoto
それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」(創世記21章10節) / しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」(ガラテヤ人への手紙4章30節)
◆はじめに…(制度的)教会は、時として残酷で罪つくりです。いわゆる求道者をキリスト者にしたいという強い使命感から「洗礼(バプテスマ)を受けないと永遠の滅び(地獄行き)になりますよ」とか、あるいは「教会員でないのに聖餐式のパンと葡萄酒(葡萄汁)を取ることは罪ですよ、死を招きますよ」とか、脅しめいた仕方で伝道(?)しようとします。それに傷ついた人々は教会嫌いになったり、人間不信になったりして教会から離れて行きます。私自身もそんな経験をしました。
◆追い出してください…今日のテキストは、アブラハムの妻サラが、女奴隷ハガルの生んだイシュマエルが、サラの子イサクをからかって(笑って)いるのを見て、「あの母子を追い出して」とアブラハムに願い出る箇所です。アブラハムは非常に悩みました。そのアブラハムに主は「サラの言う通りにしなさい」と語られました。主のお心は、イサクを生かし、イシュマエルを滅ぼすということではなくて、「はしための子も、私は一つの国民とする(祝福する)」(創世記21章13節)ことでした。主のことばを聞いてアブラハムは、パンと水を持たせて彼女たちを“送り出し”ました(同14節)。
◆憐れみ深い主…荒野をさまよい歩き、とうとう水が底をついてしまったハガルは、死を間近に意識せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。“泣き”崩れるハガルとイシュマエルの力なき声を聞いた主は、「恐れるな、子を力づけなさい」(同18節)と語り、ハガルの目を開かれ、井戸を見せられました。皮袋に水を満たすことが出来、イシュマエルは成長したと聖書は記しています。死を意識せざるを得ない逆境の中、主は約束を成就すべく、いのちを繋いだのです。
◆自由の女の子ども…イサクとイシュマエル、どちらも自由の女(信仰)の子です。なぜなら、アブラハムの元から送り出された時点で、ハガルは奴隷の女ではなく、解放された自由の女だからです。イサクとイシュマエルは、後に共同でアブラハムの葬りをしていることからお互いの信頼関係が築かれていたと思われます。
◆結び…私たちにとって理解し難い出来事、解決し難い問題があったとしても、その出来事を益として下さり、解放して下さり、内側からいのちの水を与えて下さり、泣いている者を笑う者にして下さる主イエス様に感謝します。
Posted on 07/17/2022 at 18:45, by matsumoto
主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(創世記18章14節) / 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」(ローマ人への手紙9章9節)
◆はじめに…先週、眞津代牧師の友人が加来国生(かく くにお)牧師(故人)のメッセージCD(約40年程前に語られたメッセージ)を送ってくれました。早速数本聞きました。「くすのか聖会」という集会でのメッセージで眞津代牧師は懐かしく聞き、私は新鮮な思いで聞きました。その集会の司会は私たちに牧師按手をして下さった若かれし時の恩師でした。
◆白い鳥⁉…加来先生は徴兵で中国(旧満州)に赴いていたようで、そこで敗戦を迎え、兵役を解除され、とりあえず北京行の汽車を待っていたそうです。失意、喪失感で駅のホームでうつむいていたところ、目の前を白くてきれいな鳥が地面を滑るように飛んでいると思ったら、ふわっと空に舞い上がり、それは美しい光景だったと。その光景を見て、内側から生きる希望、聖霊の熱情が湧いてくる体験をしたそうです。
◆立ち塞がる現実を前にして…今日のテキストは、年老いたアブラハムとサラにみことばが臨んだ箇所です。常識的には不可能と思える現実があるにもかかわらず「来年の今ごろ、男の子を産む」との約束のみことばが語られたのです。アブラハムもサラも人間的な可能性はゼロと言える現実を前に、心の中で苦笑、嘲笑しました。約束のみことばに信頼することができなかったのです。
◆選ばれたアブラハムの祈り…しかしアブラハムは主から選ばれ、主の道を守り、主の約束を成就する(すべての国々を祝福する)器です(創世記18章18-19節)。ゆえに約束の成就に向けて主は計画を進め、約束の子イサクを授けられます。このときの喜びはどれほどだったでしょうか。また、イサクの誕生までの間、アブラハムとサラの祈りはどのような祈りだったでしょうか? 李天秀牧師はかつて主日礼拝のメッセージで「私たちが、ただ主だけを求めると、道は自然と現れ、開かれるようになっています。それは創造前に神の愛の内で、神のいのちが私たちの道を先に予定したからです」と語られました。つまり、「問題を解決してください」と祈るのではなく「主を仰ぎ見るようにしてください」と祈りなさいと。
◆結び…「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」「창세 전에 그리스도 안에서 우리를택하사 우리로 사랑 안에서 그 앞에 거룩하고 흠이 없게 하시려고」(エペソ1章3-4節)
Posted on 07/10/2022 at 16:55, by matsumoto
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。(創世記17章8節) / ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。(使徒の働き7章5節)
◆はじめに…先週の金曜日、奈良で選挙応援演説中、安倍元内閣総理大臣が二発の銃弾に倒れました。この出来事に対する人々の反応は様々です。まだ安倍さんが病院で蘇生処置をしている時、いとすぎ教会の礼拝にリモートで参加しているМ姉は「安倍さんが心肺停止の中で天国を見て、生き返って、天国はあります、素晴らしいと証しできるように一緒に祈ってください」と電話をくれました。
◆ステパノの演説…今日のテキストのテーマは「ステパノの演説」です。「モーセと神とをけがすことばを語った」として捕らえられ、議会へひっぱって行かれ、大祭司から事実確認のための答弁を求められます。そこでステパノは、アブラハムに与えられた神様の約束から語り始め、順序立ててユダヤ人の歴史の最も重要な部分を穏やかに丁寧に語り、告訴した側の方がむしろ律法を守らず、聖霊に逆らっているのではないかと、訴えた側の誤り(虚偽)を叱責しました。
◆ステパノの死…当然、訴えた者の反感を買いました。「はらわたが煮え返る(=心をのこぎりで引き切る)思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした」(使徒の働き7章54節)と聖書は記しています。訴えを起こした人々は、ステパノを町の外へ追い出し、石で打ち殺しました。ステパノは石の嵐の中で意識が薄くなりつつ、「主イエスよ。私の霊をお受けください」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(同59、60節)と叫び眠りについたのでした。ステパノの目は迫害者にではなく、天におられる主イエス様に注がれていたのです。
◆立っておられるイエス様…そのステパノのことをイエス様は、神の右に座しておられるのではなく、立ち上がって見つめ、とりなしておられたのです(同55節)。その同じイエス様がステパノ同様、私たちのことを立ち上がって見つめ、とりなしておられることを信じます。
◆結び…困難に遭遇したとき、目の前の忌まわしい出来事、避けたい人々に目と心を奪われがちですが、天におられ、絶えず私たちのことを立ち上がって見つめ、とりなしをしてくださっているイエス様に目とこころを向け、イエス様から愛を受け、その愛を隣人と分かち合う歩みを続けられるよう、祈ります。
Posted on 07/03/2022 at 20:03, by matsumoto
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節) / 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。(ローマ人への手紙4章3節)
◆はじめに…昨日、KDDIで大規模な通信障害が発生しました。私の勤めているデイサービスでは携帯電話は必須です。たとえば送迎時にスタッフが得た利用者の情報(お休みすることだったり、その内容だったり、昼食のキャンセルだったり…)を事務所に伝達し、速やかに対処(現場での情報共有、各関係者に連絡)しなければなりません。それがフリーズしてしまいました。電波が通じないことでこれほどの不便と混乱を来してしまうのであれば、神様とのホットライン(霊の交流)が繋がらない状態では…。
◆義(その1)…今日のテキストのテーマは「信仰義認」です。ひと言で言えば「イエス様を信じて生きる」ということです。ヘブル語で“義”は“ツェダカー”で“真っ直ぐにする”ことが本来の語義です。曲がっていない、反れていない、あるいは弛(たる)んでいないということです。もっとも初歩的な通信手段は小学校の理科の実験にもあるような「糸電話」です。二つの紙コップを糸で繋いで教室の端から端までの距離をピンと糸を張って伸ばすと、小声で話しても聞こえます。人類の始祖アダムは神との関係が弛んだ(あるいは切れた)ことで神の声が聞こえなくなり、罪が入り、死が入り込みました。それをイエス様によって再びつなぎ合わせられ、神様との霊的交流が復活したとパウロは語ります(ローマ4章24節-5章21節)。
◆義(その2)…「義」という漢字のつくりから、“義”の奥義を理解することも有益です。“我の上に羊”です。羊の上は御国です。そこから父なる神様が私たちを見るとき、羊すなわちイエス様しか見えません。しかもそのイエス様は贖いの小羊としてのイエス様です。私たちの罪は、イエス様の血によって覆われ、私たちは義と認められ、救いに与っているのです(ローマ5章9節)。アブラハムが信仰によって義と認められ、主と親しく交わり生きたように、私たちもイエス様を信じ、イエス様と親しく交わり生きる人生が、日々、準備されています。イエス様と私たちとの愛の関係を引き離す障害物は何もありません(ローマ8章35-39節)。
◆結び…イエス様はおっしゃいました。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい」。自らの血と肉を捧げられた贖い主、救い主、永遠の大祭司なるイエス様が、今日も、この瞬間も、執り成しの祈りをもって、私たち一人ひとりを創造の父なる神様との霊的親子関係を保ってくださっていることを感謝します(同34節)。
Posted on 06/26/2022 at 17:15, by matsumoto
さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。(創世記14章18節) / このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。(ヘブル人への手紙7章1節)
◆はじめに…来月7月から、娘が、礼拝堂で子ども向けの「英語リトミック」の教室を開く準備をしています。もともと音楽療法に関心があったこともあり、これから教室に通う子どもたちの心身の成長のサポートができれば主に喜ばれる素敵な場になるのではと願っています。
◆メルキゼデク…今日のテキストのテーマはメルキゼデクを通して啓示されるイエス様です。メルキゼデクは旧約には創世記14章18節と詩篇110篇4節の2カ所、新約ではヘブル書5~7章にしか登場しません。聖書66巻から見ると川の中から砂金を掬うようなものです。名前の意味は「義なる王」です。その義なる王は祭司でもあったのです。王であり祭司であるメルキゼデクが、アブラハムをパンとぶどう酒を携えて祝福したという記事が今日のテキストです。ヘブル書はキリスト者になってある程度年数を経て、後輩の指導をする役割を期待されてもよいくらいであるにもかかわらず、信仰が成長しておらず、信仰を捨てたり、ユダヤ教に逆戻りする者を励ます目的で書かれた手紙です(ヘブル5章12節、6章5、6節、10章35節他)。その核になるメッセージは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12章2節)です。そのイエス様は「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」(ヘブル6章20節)となられた方なのだ、そう語りかけます。
◆レビ系祭司職に勝る…ユダヤ教の律法によればレビ族が祭司職を担当することになっています。しかしレビがまだアブラハムの腰の中にいた時(生まれていなかった時)、すでにメルキゼデクはアブラハムから十分の一を受け、祝福をしています。つまりメルキゼデクはレビに先立ち、レビに勝る祭司なのだと(ヘブル7章3-10節)。そして神の子なる主イエス様は、さらに勝る大祭司なのだ、そうヘブル書は語るのです。
◆結び…自らの血と肉を捧げられた贖い主、救い主、永遠の大祭司なるイエス様が、今日も、この瞬間も、執り成しの祈りをもって私たち一人ひとりを創造の父なる神様との霊的関係を結んでくださっていることを感謝します。