Posted on 10/13/2019 at 14:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『サウロからパウロへ』(イエス・キリストの生涯 その82)(2019.10.13)

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った(使徒の働き13章12節)

  • はじめに…私の勤めるデイサービスでは、台風19号の影響を考慮し、安全確保の観点から台風最接近の前日に休業を決めました。会社の利益ではなく、高齢の利用者と子育て中のスタッフの生命(生活)を最優先にした経営陣の判断に心の中で拍手しました。幸い私たちの地域は台風の被害はありませんでしたが、関東甲信越、東北にお住まいで被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。主の慰めと励ましの中で日常生活が営めるように祈ります。 
  • 仮庵の祭…ところで今日の日没からイスラエルでは“仮庵の祭り”(スコット)が始まります。仮庵のことをヘブライ語でスカー(その複数形がスコット)と言いますが、仮庵を建てるのは、約束の地カナンに行く過程で荒野で40年間流浪したことを記憶するためです(レビ記23:42-43)。祭では、シロアムの池から汲んだ水をエルサレム神殿に運び、それを祭壇に注ぐ儀式が行われました。イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになる」(ヨハネ7章37-38節)と宣言されました。これはイエス様の贖い、そして復活によってすべての人の内側に、いのちの御霊が息づく奥義です。
  • 聖霊に遣わされ…今日のテキストの使徒の働き13章から、パウロの異邦人伝道が始まります。この働きは聖霊の働きでした。アンテオケ教会で礼拝、断食をしていたところに聖霊が「バルナバとサウロを、わたしが召した任務につかせなさい」と語られ、按手して伝道に送り出しました(使徒の働き13章2-3節)。そして“聖霊に遣わされ(=シロアム)”て、最初にキプロス島へ渡りました。
  • 聖霊に満たされ…そこでサウロは、魔術師エルマとの霊的な闘いをすることに。聖霊に満たされて、この闘いに勝ったサウロは以後、パウロと名乗るようになりました。信仰に入った総督パウロの名を記念し、またラテン語で“わずか(=不足)”を意味することから、聖霊の充満によって霊的闘いに勝利したことの記念の意味も込められていたことでしょう。もちろん異邦世界に通用するローマ名だということもあるでしょう。ここに聖霊、すなわちイエス・キリストに忠実な主の器、伝道者パウロが名実ともに誕生しました。
  • 結び…パウロ同様、私たちも自らの使命、任務、あるいは日常生活を、自分だけの力ではまっとう出来ず、聖霊の導きと満たしのエネルギーがあってこそ、まっとう出来るのです。新しい週、私たちの内に聖霊を遣わして下さり、愛と喜びと平安で包んで下さるイエス様と歩める幸いを感謝します。
Posted on 10/06/2019 at 09:18, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主を認め、ゆだねる』(イエス・キリストの生涯 その81)(2019.10.6)

そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」(使徒の働き12章11節)

  • はじめに…9月22日から24日、私たちは壱岐という島へ行ってきました。2001年から2008年まで、島の教会に牧師として仕えたところです。10年ぶりの友人たちとの再会は想像以上に感動的であり、熱い歓迎のもてなしに涙が溢れました。台風17号の影響で私たちの予定は大幅に変更になったのですが、それでも思いがけない喜びを体験することが出来、とても良い旅となりました。その旅を通して、すべて主が私たちを守ってくださったことであることが分かりました。牢に入れられたペテロは牢から救い出された時、幻と思っていたのですが、主が御使いを遣わしてくださった、主の恵みであることが分かった、と告白しています。
  • 捕らえられたペテロ…使徒たちによって、多くの人々がイエス様を救い主と信じるようになりました。その反面、それをいぶかるユダヤ人も多くいたのです。ヘロデ王(ヘロデ大王の孫)は使徒ヤコブを捕らえ、ざん首しました。この事を多くのユダヤ人が喜んだので、次にペテロを捕らえ、牢に入れてしまいました。4人の番兵のうち2人は、牢の中に入りペテロの両側に行き、それぞれペテロの手と兵士の手を鎖でつなぎ、他の2人は牢の外で見張るという厳重な警戒ぶりでした。そのような状況下であるのに、ペテロは牢から出ることが出来たのです。それは主が遣わしてくださった御使いの働きによるものでした。
  • ペテロとヘロデ王…御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ていると思っていたペテロでした(使徒12章9節)。しかし牢から出ることが出来た時、主が御使いを遣わし、救い出してくださったことが分かりました(同11節)。主がしてくださったことを認めた時、ペテロはいのちを得ました。一方、ヘロデ王は、この出来事を知り、不思議さを感じるどころか、ペテロを逃がした番兵たちに対して怒り、いのちを奪ってしまいました。ヘロデ王は主を認めなかったのです。その結果は死でした。
  • 結び…壱岐の島に行く前、主は私たちに語られました。「その地に行って、楽しみ喜びなさい。そこで新しいことを示そう」と。台風にはばまれたように思いましたが、主が語ってくださった言葉を受け取っていたので、必ず壱岐に行ける、と安心していました。台風の風で揺れるホテルの中で、私たちは主を認め、ゆだねました。そして素晴らしい旅を主から与えられました。「あなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ、主が成し遂げて下さる」(箴言3章6節)主の祝福をお祈りします。
Posted on 09/15/2019 at 08:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『どんな状況にも主の御手がある』(イエス・キリストの生涯 その78)(2019.9.15)

そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。(使徒の働き11章21節)

  • はじめに…9月5日(木)、名古屋の五反城(ごたんじょう)カトリック教会に行ってきました。そこでマザー・テレサの召天22年目を覚えるミサがささげられました。イエス様に仕えるよえに極弱の人々に仕えたマザー・テレサは、インドのみならず、世界中の人々にイエス様の愛を語りました。そのような大きな働きをしたマザーでしたが、インドに住み初めの頃は、地元の人々からは受け入れられず、迫害さえ受けました。そのような状況下にありならがもマザーを受け入れる人と、一人また一人と出会い、やがて多くの人々から受け入れられ愛されるようになったことは周知のことです。そこにはマザーを通して救いの御手を伸べておられる主がおられました。主はマザー・テレサという助け人を通して、ご自身の愛を現されました。
  • 散らされた人々…ステパノの事件後、エルサレム教会は迫害を受け、弟子たちはユダヤ人共同体のある地に散って行きました。フェニキア(レバノン)、キプロス(バルナバの故郷の島)、そしてダマスコの次にユダヤ人が多く居住しているアンテオケ。散らされた地で弟子たちはイエス様は造り主であり、罪を赦された神であることを語りました。
  • アンテオケの地…フェニキヤやキプロスではユダヤ人以外の人には福音を語らなかったのですが、アンテオケではユダヤ人以外の人にも語りました。アンテオケは東西を結ぶ交通の要所であり、多国語を話す人が多くおり、経済は豊かでしたが罪と偶像に満ちていました。そのような地に住む人々に主の御手がとどまったたので大勢の人々がイエス様を信じ、主に立ち返りました(21節)。さらに、バルナパを送られました。バルナパは「慰めの子」と言われている、聖霊に満ちた人です。罪と偶像に満ちている地に住む人々は、一旦はイエス様を信じても環境や習慣に惑わされて主から離れてしまう条件がそろっている地です。だからこそ、主は人々を慰め励ますためにバルナパを送られました。
  • どんな状況の中でも…異邦人の心を開き、福音を受け入れられるように準備された主。惑わしの多い環境にあって、主を見上げ続けることができるように助け人を送られた主。私たちの弱さを知っておられた倒れないように、また主の御手から迷い出ないように、いつも慰め励まして下さる主。アンテオケの教会はユダヤ人と異邦人が混在(共生)する教会となりました。
  • 結び…主は、私たちの心を整えて、主のことばを受け入れることができるようにして下さっています。また、助け人も備えて下さっています。安心して一歩ずつ歩ける一週間となりますようお祈りします。
Posted on 09/08/2019 at 17:02, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主の愛に包まれたひとりの人間として』(イエス・キリストの生涯 その77)(2019.9.8)

するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。(使徒の働き10章26節)

  • はじめに…先月NHKスペシャル(BSプレミアム)で放映されたブルースリーに関する番組の中で、ブルースリーがインタビューを受けるシーンがありました。「あなたは中国人? それともアメリカ人?」と聞かれ「自分は人間だ。偉そうに語るつもりはないが、天の下、人類はひとつの家族だ」と答え、その言葉がとても印象深く残っています。
  • レッテルを貼る…私たちは「あの人はああいう人だ」「この人はこういう人だ」などと断定的に評価し、一方的に整理分類してしまいがちです。一旦、そのようにレッテルを貼ると、なかなかそれを剥がすことができなくなります。人や世界を観る目が固定してしまいます。ですから別の視点(視座)を持つ必要があります。
  • 出会い…今日のテキストは、ペテロとコルネリオの出会いです。ペテロはヨッパに、コルネリオはカイザリヤにいました(約50㎞、春日井―郡上間の距離)。それぞれが祈る中で、御使いが二人に幻を見せ、出会いを導かれ思いがけない出会いを体験することになったのです。その出会いでペテロは幻の霊的な意味を悟り、異邦人への福音の門が開かれたのです。異邦人に対する偏見、差別意識が打ち砕かれたのです。
  • 生活の場で…ペテロとコルネリオの出会いと同様に、日々の暮らしの場において思いがけない出会いがあります。その出会いを通して主は、私たち一人ひとりをかけがえのない存在として分け隔てなく大切に接し、ケアし、それぞれを霊的に成長させてくださり、喜びと平安で満たしてくださいます。
  • 結び…世界は悲しみと不安で満ちています。偏見や差別が満ちています。しかし、その悲しみと不安な思いを主が顧みてくださり、出会いを与えてくださり、私たちの内側に永遠の落ち着き場所を備え、喜びと平安で満たしてくださいます。イエス様は、私たち一人ひとりを、かけがえのない大切な人として地上生涯の最期まで、そして御国において永遠に、主の愛で包んでケアしてくださいます。
Posted on 09/01/2019 at 19:29, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『新しい人になる』(イエス・キリストの生涯 その76)(2019.9.1)

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒の働き9章4-5節)

  • サウロという人…ステパノが石打ちの刑に処せられている時、サウロはそこにいました。サウロはヘブル語で、ラテン語ではパウロといいます。父親は天幕作りの職人でそれを習っていたようですが、とても頭の良い人でした。聖書の暗記大会ではいつも一位を取るほどで律法を忠実に守って生きていました。そのため“その道の者”(使徒9章3節)と呼ばれるキリスト者を迫害することにも熱心でした。
  • ダマスコ途上…頭の良いサウロはキリスト者が大勢集まっているダマスコ(現在のシリア)に行き、その道の人々を捕えようとして出かけます。その途上で復活の主イエス様が彼に現われました。「サウロ」とイエス様は呼びかけられます。
  • 新しい人となったサウロ…目が見えなくなったサウロは三日間、飲まず食わずで過ごしました。サウロは三日間、今まで律法主義になり真理を見ることができなかった自分自身、つまり古い人との決別の時をイエス様は与えられました。そしてアナニヤを通して再び目が見えるようになった時、サウロは新しい人に生まれ変わりました。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかられました。そして三日目に復活されるまでの間、よみに下り、すべての暗闇、罪と戦い勝利されました。サウロは聖霊に満たされ、主イエス様の十字架と復活、そしてイエス様は救い主であることを宣教する人へと造り変えられました。
  • 結び…サウロは目が見えなくなった三日間、恐怖と不安の中にいたかも知れません。何もすることができない全くのお手上げ状態、無力さの極みです。そのどん底にイエス様は御手を差し伸べて下さり、解放と平安を受ける新しい人として造り変えて下さいました。私たちをとりまく問題は、無遠慮に私たちの目や心に押し入ってきます。そのような時、私たちは目を閉じ両手を広げて問題を手放しましょう。その時、イエス様は微笑んで私たちを包み新しい人として抱いて下さいます。
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