Posted on 05/10/2020 at 09:56, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『みことばの経済』(イエス・キリストの生涯 その107)(2020.5.10)

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ人への手紙1章4節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…車を運転するときには、事故を起こさないように前後左右の安全を確認することはもちろんですが、ふと目を上げて空を見ることがあります(脇見ではありません)。美しい夕焼けだったり、オレンジ色の満月だったりします。先日はきれいな虹が掛かっていました。そんなとき、自分の心の眼の視野が狭くなっていることに気づかされます。目の前の現実、しかも非常に偏った見方をしているのではないかと思わされます。もっと大切な視点があるのだと語りかけられているような感じがします。
  • エペソ人への手紙…前回も触れましたがローマ幽閉中にパウロは「獄中書簡」(エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書)をしたためました。その中で最初に書かれたのが「エペソ人への手紙」です。比較的自由な環境であったようですが、やはり捕らわれの身。行動は制限され、ほぼ自費で借りた家にとどまっていたことでしょう。しかしパウロの霊は天に向かって開かれ、この地上、この世界にとどまらず、揺るぎない“神の意志”“神の計画(経綸)”を明確に意識するようになっていました。つまり啓示を受けていたのです。
  • みことばの経済…神の計画(経綸)、それは神の愛(みことば)の経済の成就です。お金で回る経済ではなく、みことばによって回る経済です。それは全世界、もっと言えば全宇宙規模の経済です。キリストにある平和(の福音)が隔ての壁を打ち壊し、みことばがユダヤ人だけでなく異邦人にも届けられ(エペソ2章14節)、みことばの経済が神の(国)の家族を作り上げるのです(同19節)。家族の長は父なる神です。イエス様はその父なる神の子です。そして私たち一人ひとりは、神の子なるイエス様に結ばれた(あがなわれた)兄弟姉妹です。このことが、天地が創造される以前に、愛なる神のご計画の中に落とし込まれているのだと、パウロは確信をもってエペソの人々に伝えたのです。神の愛(みことば)の経済は永遠です。イザヤも預言しました。「草は枯れ。花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40章8節)。イエス様も語られました。「空の鳥、野の花を見なさい。天の父はあなたがたの必要は知っておられます」(マタイ6章19-34節参照)。
  • 結び…今日、そして一日一日、聖霊の力で私たちの内なる人を強くし、恵みによる信仰によってイエス様が心のうちに住んでくださり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知り、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、皆さん一人ひとりが満たされるよう、祈ります(エペソ3章14-21節参照)。
Posted on 05/06/2020 at 19:16, by matsumoto

歴史を動かすもの(『富田和久著作集第四巻 p126-p131』より抜粋)

 イギリスの著名な歴史学者でアーノルド・トインビーという人がおりますが、年頭にあたって書いた論文の中でこういうことを言っている。

 大人にしろ、青年にしろ、人間は何のために生きるべきなのか。人間の役に立つことをするために、というのはその一つだが私はそのほかに別の目的があると思う。私は宇宙の現象の中およびその背後にある究極的な精神の実在、それが如何なるものであろうとも、そういう究極的な精神の実在に自分を調和させるように一人一人が努力しなければならないと信じている。言いかえるならば私は人間には宗教的なものが必要であると信じている。

 そう申しております。これが歴史学を窮めた学者の見解であります。トインビーは伝統的教派的な意味における信者ではないようですから、彼がこの説を唱えているのは歴史学者としての学問的結論といってよろしいかと思います。

 私は勿論、歴史学の専門家ではありません。しかし、かつて旧約聖書の創世記をはじめて通読した時に、今、トインビーが述べていたのと極めて近い感想を抱いたことを思い起こします。創世記には幾世代にもわたる民族の歴史が書かれておりますが、それは単なる事実の羅列ではなく、そこに一貫して流れる絶対者の意志というものが書かれています。すなわち、絶対者の意志によって、人間の一つの世代から他の世代へと時代が移って行っている。そして、どんなに強い人間でも、絶対者の意志にそわなかった者は歴史における単なるフラクチュエーション(動揺、ふらつき)として、枝葉として、後代に残る本流からは外れていっている。どんなに弱い者であっても、神の欲したもうたその流れに沿うておる者は歴史の本流としてたてられていっている。そういう感想を持ちました。

 そう思って読んでみますと、聖書というのは大変古い書物でありますが、我々が今問題にしてきたようなこと、また歴史学が基本的な問題として提起している事柄に関していえば、そういう問題をきわめて明確に意識し、これに対して思い切った答を与えている書物であることが分かります。

 歴史学者が宇宙的な意志、絶対的な意志と呼んだものを、聖書においては「唯一の真(まこと)の神」という言葉で呼んでいます。歴史の底に絶対者の意志が一貫性を持って流れているということを、聖書においては歴史は神の経綸の展開である、そういう言葉で表現しております。「経綸」という言葉の原語はオイコノミアですが、今日の言葉でいえばエコノミー、経済とか、経営とか、家の仕末とかそういう意味あいの言葉であります。すなわち、歴史の底には神の計画と予定が一本貫いて流れているというのが聖書の考え方であります。

 人間の行動や自然的な出来事はきわめて多様性に満ちておりますが、長い目で見ると、事の成り行きは瞬間的な出来事や目先の意図とは必ずしも一致しないところの「神の意志」というものが歴史を貫いている。しからば神の意志とは何であるか。神の意志の内容は何であるか。歴史の経綸の目的は何であるか。これは形式論を越えた重大問題でありますが、聖書にしたがえば、人間にとって必ずしも理解し難い事柄ではありません。それは、罪に囚われた人間を救い主イエスを信ずるという道よって解放し、救うという事実から出発しています。しかし、救いは個々の人間にとどまるのではありません。そこがすべてのことの出発点ではありますが、さらに進んで、救われた人間の営む歴史の究極的目標として、「神の国」という考えが聖書にあらわれております。信仰によって救われた人々が相寄って「神の国」という理想の社会を営む、そしてこの「神の国」を完成するということが聖書における神の経綸の最終目的であります。そういう明確な恩恵の意図を持って神は歴史を導いておられる。

 歴史の段階的発展ということを申しましたけれども、これに関する言葉として聖書には「クリシス(審き)」という言葉があります。今日でもクライシス(危機)という言葉になって残っております。歴史を区分する時代、それをアイオーン(世代)と申しますが、古い時代から新しい時代に移っていく際に、必ずしも漸次的連続的に移行するわけではなく、きびしい選別が短時間に行われることがある。不要な古い要素が捨てられて新しいものが急激に現れる、激変の起こる場合があります。これを聖書では「審き」とよんでいるのです。

 神が歴史を導く目的は最後の審判をへて神の国を完成することにありますが、神はその終極的な目標の実現に対して決してせっかちではあり給わない。忍耐を持って歴史を導いておられます。それ故に、歴史には小規模の上り下り、言いかえれば小規模の「審き」ということが繰り返し現れてくる。そういう意味で時代が画されていくのであります。

 こうして、歴史には大きな波が出現するのですが、その無気味な大変動に直面した時、小さい人間はしばしばどうしていいか分からないということになります。もし、頼るべきものは自己の存在以外にないということであれば、あるいは一人よがりの楽観論によって人を欺く者があらわれたり、あるいは悲観的絶望的な自己激励と反抗に身を亡ぼす、というように右往左往する事態が発生するのであります。けれども、神を信ずる者、その恩恵と意志とを知って自らの心、自らの意志を神の意志に一致せしむる者にとって絶望ということはありません。たとえ歴史の展開が下り坂にあると判断されるような時点においても、彼は神の経綸を信じて立つことができます。立つことができるだけではありません。神は目覚めた人間をオイコノモス(家司)、すなわち、「歴史の経営をあずかる者」として選び、これに歴史進行の責任をお委ねになるのです。これが聖書の説くところの歴史観、歴史における人間の役割の概略であります。(矢内原忠雄記念講演 一九七〇年二月八日 京都会館別館。『おとずれ』45号 一九七〇年五月)

Posted on 05/03/2020 at 09:10, by matsumoto

主日メッセージ要約『憚ることなく妨げられることもなく』(イエス・キリストの生涯 その106)(2020.5.3)

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28章30、31節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…私の勤めるデイサービスの利用者さんの中にも新型コロナウイルスの感染が心配で利用を一時休止される方が相当数いらっしゃいます。ほぼ一カ月以上、顔と顔を合わせていない訳ですが、先日、その方々にスタッフの写真入りメッセージを郵送しました。それに対してほとんどの方がお手紙や電話で応答して下さいました。コロナウイルス感染拡大の中、利用者の方々との物理的、時間的な距離は離れても、こころの距離は、想像を超えて近いことを実感し、大いに励まされました。ケア(介護)は一方通行ではなく双方向だということを、改めて体験しています。お互いがお互いのためになくてはならない大切な存在、キリストの体の肢体だということをつくづく思います。
  • Stay home…コロナウイルス感染拡大防止のため、不要不急の外出を避け“ステイホーム”が呼びかけられています。そのため多くの教会でも教会に集まっての礼拝は行わず、それぞれのご家庭で祈りの時を持つよう、勧められていることと思います。言うなれば、使徒の働きの最終章のパウロの幽囚状態と同じ状況と言えるでしょう。かつての日本で言えば“蟄居(ちっきょ)”です。行動は大きく制限されてもホーム(祈りの家)は無限の拡がり、深まりがあります。
  • 古くて新しい教会像…今、世界の枠組みが大きく変革されようとしています。教会も同様でしょう。その方向性は、今日のテキストのパウロの宣教の在り方にあるのではないでしょうか? 宣教の目的地、“地の果て”であるローマ幽閉中にパウロは「獄中書簡」(エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書)をしたためました。つまり周囲には信頼できる信徒たちがいたにもかかわらず、組織的(制度的)教会を人為的に創設することはせず、借家に訪れる信徒たちに神の国とイエス様を伝えることが、パウロの働きのすべてだった訳です。私たちは今、再び、この古くて新しい教会像を軸に据えるときでしょう。
  • 結び…それぞれの場で、はばかることなく、また妨げられることもなく、パウロのように、また主イエス様のように、神の国の福音を告げ知らせる一日一日であるよう、お祈りします。
Posted on 04/26/2020 at 09:45, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『元気を出しなさい』(イエス・キリストの生涯 その105)(2020.4.26)

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい(こころ晴れやかに、上機嫌で)。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。(…)ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(使徒の働き27章22、25節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…新型コロナウイルスの感染拡大は一向に収まらず、先週は俳優の岡江久美子さんが亡くなったことが報じられました。最期の看取りもできない家族の方々の悲痛な思いに絶句します。家族の方々に主の慰めを祈ります。
  • アプリ「聴くドラマ聖書」…「聴くドラマ聖書」というアプリがありますが、その配役で神様役が岡江久美子さんのご主人、大和田獏さんのお兄さんの大和田伸也さんです。クリスチャンです。岡江久美子さんを包むようにキリスト者の親族があり、きっとその一人ひとりの祈りがイエス様に届けられていることと信じます。
  • 難破船…今日のテキストはパウロが囚人としてローマへ護送される船での出来事です。不幸にも船が座礁し難破してしまったのです。よく私たちの人生を船に乗った航路にたとえます。人生、順風満帆に越したことはないのですが、逆風が吹き、ときに漂流し、難破してしまうことがあります。どんな時に漂流したり難破するのかというと、自分の知識経験に頼ったり、自身の欲望を優先したり、所有に執着したりする時です。
  • 救い(贖い)…いざという時の命綱は、私たちの持っているものではなく、主イエス様の口から出る、みことばです。みことばによって確信が与えられ、希望が与えられ、喜びが与えられ、元気が与えられるのです。私たちの人生の羅針盤は聖霊です。こころ静かに聖霊様の導きに委ねるとき、絶望的な非常事態の中にあっても、恐れたり、動揺したりすることなく、平安のうちに生きることができます。パウロは、「いのちを失う人は一人もありません」と宣言しました。“いのち”はプシュケー(息)です。それはイエス様が私たちに吹き入れてくださっているいのちです。そのいのちは船が失われても、決して失われないのです。パウロの主に対する信頼が、乗船者すべてのいのちを救ったのです。この出来事は断食の季節、つまりユダヤの大贖罪日、そして仮庵の祭の時期でした。大祭司による贖いからイエスの再臨にいたる出来事を霊的に覚えるにもっとも相応しい時だったと言えます。
  • 結び…船は失われました。しかしすべての人は救われました。つまり不信仰と絶望と憎悪はこっぱみじんになったのです。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛」です。今日一日、元気を出して、こころ晴れやかに行きましょう。
Posted on 04/19/2020 at 09:35, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『暗やみから光に』(イエス・キリストの生涯 その104)(2020.4.19)

それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである(使徒の働き26章18節)(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

  • はじめに…3月末から岐阜県可児市御嵩町に引き寄せられています。かつて御嵩町にはキリシタンが生きていたのです。そのことが分かったのは1981年に町道の道路拡張工事の際、十字架の石碑が七御前(ななごぜん)と呼ばれる場所から発見されたことがきっかけでした。今からわずか約40年前です。
  • 絶やさずの灯明…そこでは「絶やさずの灯明」と呼ばれる行事が行われていたということです。それは『毎年4月20日の夜から21日の朝にかけて、仏壇にマリア像と思われる子育て観音を立て、ろうそくに火を灯し水を供える。線香は焚かず読経もあげない。ろうそくは一晩中絶やさないよう見守る。これは代々嫁いできた嫁の仕事だった』(渡辺正司著「霧に隠れた里 御嵩のキリシタン」より)。同じ日の夜、十字架の石碑が発見された七御前の森に、人目を忍んで祈りに行っていたようです。つまりイースターに時を合わせるようにして行事を行っていたのです。
  • 暗やみから光に…今日のテキストはアグリッパ(ヘロデ大王のひ孫)の前でのパウロの弁明です。そこでパウロは大胆に主イエス様との出会い(ダマスコ途上での邂逅)を証ししました。復活のイエス様がパウロ(この時点ではサウロ、つまり迫害者)の眼前に現れ直接、語られたのです。「あなたを証人として任命する。暗やみ(現実)のただ中で光(真実)を見出す霊眼を開き、暗黒の世界(罪と苦難と絶望)から、光の世界(正義と歓喜と希望の)に立ち返らせ、まったく新しい生命に繋がって生きるものとするためである」(使徒26章18節筆者私訳)。その宣言を太陽よりも明るく輝く光の中から聞いたのです。
  • 結び…神は光であり(Iヨハネ1:5)、御子イエスは、まことの光であって(ヨハネ1:9)、この光はやみの中に輝いており(ヨハネ1:5)、やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネ1:5)と、使徒ヨハネも宣言しています。永遠の光である復活の主イエス様は、皆さんお一人ひとりの希望の光として今日も暗やみの中で輝き続けています。
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