Posted on 03/17/2019 at 15:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『過越の食事』(イエス・キリストの生涯 その57)(2019.3.17)

イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。(ルカ福音書22章15節)

  • はじめに…先日、日帰りで秋田に行ってきました。空気はクリアでひんやりして、雪寄せされた雪が、道端や駐車場の脇にこんもりと積まれていました。その日は、秋田の食材をふんだんに使った郷土料理をいただきました。秋田の食文化にすっかりとりこになるほど美味しい食事でした。また友人と一緒に食事をすることで親しく交わることができました。イエス様も、良くいろいろな人と食事をしたことが記されていますが、今回は特別な食事となりました。イエス様は十字架を目前にして、使徒たちと一緒に最後の過越の食事をされました。
  • 一緒に食事をしたい…15節をみると、イエス様が使徒たちと一緒に過越の食事をすることをどれほど望んでおられたかが分かります。それは、この地上では最後になる食事。しかし十字架の贖いと神の国(千年王国)への扉が開かれる特別で大切な食事だったからです。それは愛(希望)を示しています。聖書にはイエス様が一緒に食事をしようと声をかけられる場面がしばしばあります。たとえば、復活されたイエス様がガリラヤに逃げたペテロやその他の使徒たちに「一緒に食事をしよう」と言われました。この時、イエス様は使徒たちの裏切りに対して赦すことを示されました。またヨハネ黙示録3章20節「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。ここでは主に背を向けている人々に、主の方から和解を示されます。一緒に食事をすることは、愛(希望)、赦し、和解を、主ご自身の方から私たちのところに歩み寄って与えて下さるということです。
  • 裂かれたパン…過越の食事は、、出エジプトの出来事を想い起させるメニューになっています。その中にはイエス様の十字架を予表するものもあります。それはパンです。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えられました。このパンは種なしパンですが、黒く焦げ目がつけられており、全体に穴が明けられています。ユダヤの人々は、これを伝統として無意識に受け継いでいますが、実はこれらはイエス様の十字架を表わしているのです。焦げ目は鞭打たれた傷、穴は釘を打たれたことを表わしているのです。そのパンをイエス様ご自身が裂いて弟子たちに与えられました。ご自分のいのちをすべての人々に分け与えられた、それが十字架です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)
  • 結び…愛(希望)と赦しと和解を与えるためにイエス様は今日も「一緒に食事をしよう」と声をかけておられます。
Posted on 03/10/2019 at 18:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『洗足』(イエス・キリストの生涯 その56)(2019.3.10)

過越のまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の來たれるを知り、世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり。(文語訳) (ヨハネによる福音書13章1節)

  • はじめに…昨晩、NHKスペシャル「崖っぷちでもがんばっぺ~おかみと社長の奮闘記~」の番組で 岩手県釜石の浜辺にある旅館「宝来館」の女将の岩崎昭子さんのことが紹介されていました。岩崎さんは津波をかぶり九死に一生を得、震災の1年後に国からの補助金で旅館を再建、今も以前と同じ場所で営業を続けています。
  • 極まで愛し給う方…今日のテキストの箇所はイエス様が十字架に付かれる直前の「告別説教」です。マタイによる福音書5-7章ではイエス様が宣教の始まりに語られた「山上の説教」が記されていますが、イエス様の公生涯の最初と最後に語られた二大説教と言えるでしょう。それをいとすぎ教会のある場所から見える山にたとえるなら「御岳山」と「伊吹山」になるでしょうか。イエス様の生涯は愛より発し、愛に至る生涯といえます。その愛のひとつの見本を十字架の死の直前に、弟子(使徒)たちに示されたのが“洗足”という振る舞いでした。そのことを使徒ヨハネは「極まで之を愛し給へり」(文語訳)と表現しています。私訳をすれば「果てしなく愛し続けられた」となるでしょうか。
  • 洗足は御国での執り成しの型…イエス様は十字架と昇天(死と復活)を知った上で、弟子たちの足を洗う振る舞いをしています。つまり永遠の別れを惜しむ思いから足を洗ったのではなく、その後の天における執り成しの約束のしるしとして、この地において足を洗ったのです(ルカ福音書24章49-51節、マタイ28章20節参照)。
  • 津波てんでんこ…弟子たちは十字架から“てんでんこ”しました。しかしイエス様は、十字架から逃げた弟子たちに「都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)と語られました。「なぜ同じ場所で再開するのですか」と、岩崎さんはよく聞かれるそうです。「ここで受けた震災の傷は、ここの水、ここの土、ここの空気で治すしかないの。」私たちの傷ついた場所にイエス様はおられ、執り成し、いやして下さいます。傷のあるところにイエス様の愛があります。
  • 結び…世の終わりまでともにいて下さる主に栄光
Posted on 03/03/2019 at 18:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『しゅろの主日』(イエス・キリストの生涯 その55)(2019.3.3)

そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイによる福音書21章9節)

  • はじめに…今年のイースターは4月21日(日)です。今週3月6日(水)は「灰の水曜日(※)」なので、受難節の始まりとなります。そこで本主日からイースターまで8週にわたり、イエス様のエルサレムに入城、十字架、復活の道をたどります。イエス様の歩みを通して神の愛のご計画に目と心を向け、またその愛を自分の出来事として体験できますようお祈りします。
  • イエス様、エルサレムへ…十字架の時が近づいたことを受け入れつつ、イエス様は過越の祭に合わせてエルサレムに入られます。その日は日曜日でした。そこでまだ誰も乗ったことのない子ロバを借りてくるようにと弟子たちに命じられました。これによってゼカリヤ書9章9節の預言が成就しました。しかし弟子たちは、なぜそのように命じられたのか分かっていませんでした。イエス様の十字架と復活を目の当たりにした後、弟子たちは悟ったと、ヨハネは回想しています(ヨハネ福音書12章14-16節)
  • 御名によって来られる方…この言葉はメシア到来を示しています(詩篇118篇26節)。イエス様がエルサレムに来られた時、大勢の弟子たちは歓迎しました。しゅろの枝(なつめやし)を振りながら、そして詩篇を歌ったのです。しかも子ロバに乗ったイエス様が通られる道に上着を敷きました。これはまさに王を迎える、つまりイエス様を王として歓迎している表れです。「ホサナ」はヘブル語の「ホシャナ」、「主よ、救ってください」という意味です。仮庵の祭の最後の日は「ホシャナ・ラバー」、訳すと「大いなる救い(ホサナ)の日」と呼ばれています。エルサレムに入られた時は、過越の祭。にもかかわらず人々は仮庵の祭の仕方でイエス様をメシアとしてほめたたえたのです。これはとても大きな神の秘密が隠されています。仮庵の祭は主の再臨を示しているのです。
  • 主の再臨ヨハネ黙示録7章9-10節には、大患難時代に殉教した多くの人々がしゅろの枝を持って主をほめたたえる姿が書かれています。そしてそれは主の再臨をほめたたえる姿です。エルサレムに入られたイエス様を喜び迎える人々と同じです。この時、人々はイエス様の十字架も、まして再臨も知るはずもありません。神の愛の計画は着々と、そして寸分も違わず進められているのです。
  • 結び…忍耐強く私たちを守りいつくしんで下さる主の御名をほめたたえます。

※灰の水曜日

四旬節は「40日の期間」という意味です。40という数は、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来していて、それにならって40日の断食という習慣が生まれました。けれども実際には、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から四旬節が始まります。それは、主日(日曜日)には断食をしない習慣だったからです。灰の水曜日に教会(主にカトリック)では、回心のしるしとして頭か額に灰をかける「灰の式」という典礼があります。

ヨハネ福音書12章12-16節

12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

ヨハネ黙示録7章9-10節

9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

Posted on 02/24/2019 at 15:12, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(イエス・キリストの生涯 その54)(2019.2.24)

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイによる福音書5章20節)

  • はじめに…先週の木曜日の夕暮れ時に、車止めのブロックに躓いて転倒して頭と手、膝を負傷してしまいました。頭をコンクリートの床に打ち付けた際、強い衝撃とともに強烈な閃光が暗闇に光ったのが見えました。モーセがシナイ山で十戒と律法を主から授与されたとき、「雷といなずまがあった」(出エジプト19章16節参照)と聖書に記されてありますが、その“いなずま”を見たかのようでした。その時、私が抱いた感情は、車止めのブロックを含む環境に対して怒る思いと、焦る自分の不甲斐なさ、そして危険な暗闇の中を歩む人々をいつくしむ思いが同時にありました。
  • 山上の垂訓…今日は、十二使徒(多様な個性の者たち)の召しの後、いよいよイエス様の宣教活動が本格的に始まったところの、山上の垂訓の箇所です。その中からイエス様の語られる“義”(律法にまさる義)について学びます。イエス様は6つの項目を示していますが、その最後の項目「復讐」に焦点をあてます。
  • 目には目を…「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています」と、イエス様は申命記に記されてある言葉を語られます。いわゆる過剰な復讐を防止するための法です。また『隣人を愛し、敵を憎め』と語られ、それらの後、「しかし、わたしはあなたがたに言います」と、イエス様の義を示されます(マタイ福音書5章39-44節)。そして「取税人でも自分を愛する者を愛してるではないか」(同46節)とズバッと語られました。この言葉は取税人だったマタイには胸に突き刺さったのではないでしょうか?
  • 敵を愛し、祈れ…『隣人を愛し、敵を憎め』ではなく、『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』とイエス様は語られました。イエス様は十字架で、みずからの言葉を成就されました。単なる八方美人的な愛ではありませんでした。イエス様を取り囲んで、その口から語りだされる生命の言葉を聞いた一人ひとりの内側に、律法の文字ではなく、イエス様の愛が染み込んでいったことでしょう。
  • 結び…私たちは不完全な器ですが、その器の中にイエス様が愛と生命を注ぎ込んでくださっています。
Posted on 02/17/2019 at 18:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『12使徒ユダの後悔』(イエス・キリストの生涯 その53)(2019.2.17)

ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。             (ヨハネによる福音書13章30節)

  • はじめに…十二使徒の学びをしていますが、今日は、イスカリオテのユダの記事からイエス様の愛にフォーカスしてみたいと思います。
  • 都会人ユダ…ペテロやアンデレは漁師で田舎者出身ですが、ユダはイスカリオテという形容が付いていますが、これはカリオテという地域を表わしていて、いわゆる都市です。ですからユダは都会人特有の洗練されたクールな感覚を持って合理的な考えをする性格だったのかも知れません。それ故に十二使徒達の中で会計係を任せられていたことも頷けます。
  • ユダの裏切り…やはりお金を扱う仕事をしていると、お金が物事の価値を計る基準になってきます。ですからラザロの姉妹マリヤがナルドの香油をイエス様の足に塗った際、ユダは「なぜ、香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12章5節)と、マリヤのしたことに対して責めています。主のみこころは何なのかということはまったく考慮していません。
  • 今すぐしなさい…今日のテキストは最後の晩さんの出来事ですが、イエス様はユダが裏切ることをご存知でした(ヨハネ13章11節)。それは詩篇41篇9節に書いてあることが成就することでした(同18節)。最後の晩さんの席で使徒ヨハネはイエス様の右に、そしてユダは左の席についていました。イエス様の側近だったわけです。その最も近くに置いていたユダにイエス様は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(同27節)とおっしゃいました。つまり時は過越しの祭です。その真実の贖いの小羊となるために今、この時だったのです。
  • 後悔と悔い改め…そのイエス様の促しの声掛けに応じてユダはすぐに外へ出て行きましたが、「すでに夜であった」(同30節)とヨハネは記しています。祭の日は満月と決まっています。つまり外は煌々と月明かりが照っていた訳ですが、ユダの心は闇で覆われていたのです。このコントラストをヨハネは描き出しているのです。晩餐の後、イエス様と使徒たちはゲッセマネの園へ向けて移動し、その途中にあったぶどう園のところで、イエス様は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです」と語られました(同15章5節)。ユダは、イエス様が十字架の死を遂げられた後、自責の念で自害してしまいました。もし、イエス様のところに罪人ユダの姿のままで戻って来たなら、罪赦され、新しく生き直すチャンスが得られたことでしょう。イエス様は、最後の最後まで愛する者の帰還(悔い改め)を待っておられることでしょう。
  • 結び…イエス様は「わたしにつながっていなさい」と声を掛けていてくざさいます。自分の罪や不甲斐なさを後悔してイエス様から離れたままでいるのではなく、イエス様のふところへ帰り、ぶとうの木につながる枝になること、すなわち悔い改めを今日も待ち続けておられます。
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