Posted on 04/07/2019 at 19:11, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『キリスト者の品位』(イエス・キリストの生涯 その60)(2019.4.7)

そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。(マタイ福音書27章32節)

  • はじめに…先週の月曜日、新元号が発表されました。伝統的には中国の漢書から取られるものが、今回は国書の万葉集がその典拠になりました(実際はその典拠も漢書から取られている)。私たちはその前日、名古屋で開かれた「内田樹&白井聡対談集会」に出掛けました。その中で興味深かったのは「民主主義の中で天皇の役割とは何かということを再定義する必要が出て来る。それを考え抜いて実践していくこと。それは動いて国民と交流を深め祈ること。鎮魂と慰謝をすること。天皇はそれに取り組んだ。そして高齢のために動くことができなくなって来た故に退位の決断をした。体力が弱まることは祈りの力が弱まる。その結果、天変地異とかの不幸、災いが起こる。昨今の相次ぐ災害について天皇は(象徴的無限責任に対して)自責しているのではないか」「天皇はキリスト教の影響を受けている。一人の人が受難する(背負う)ことで世界を救うという、アルカイック(古代的)な天皇制とキリスト教とデモクラシーを統合させた」「民主主義の品位は、自分が直接関係のないことに対して、この社会で起こることは、自分に何らかの責任があると感じる人がどれだけいるかで決まる」という発言でした。
  • 受難と祝福…イエス様は裁判の後、ゴルゴタの丘の刑場に向けて十字架を背負い、歩き出しました。もう十字架を背負って歩き続けるほどの体力は残っていませんでした。そこに居合わせたクレネ人のシモン。ローマ兵から目を付けられ、イエス様の十字架を代わりに背負うことに。「なぜ自分が…」。きっと迷惑千万な役回りだと思ったことでしょう。しかし、イエス様の受難を自らのこととして身を以って体験したことは、後のシモンの人生にとってかけがえのないもの、祝福になりました。なぜなら妻子もイエス様を信じて(主と結ばれて)生きる者となったからです(マルコ15章21節、ローマ16章13節)。
  • キリスト者の品位…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8章34節)とイエス様は語られました。自分の境遇(受難)を受け入れ、イエス様について行くという責任応答性、それがキリスト者(内なる教会)の品位を決定づけます。
  • 結び…丸ごと自分を引き受けてくださるイエス様に従がう日々であるように。
Posted on 03/31/2019 at 08:50, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『傷の深さは愛の深さ』(イエス・キリストの生涯 その59)(2019.3.31)

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。 (ルカ福音書22章32節)


  • はじめに…ゲツセマネの園で祈られたイエス様のもとへ、イスカリオテのユダや祭司、パリサイ人たち、そしてローマ兵が押しかけて来ました。そしてイエス様を捕え、大祭司カヤパの宮廷へ連行したのです。弟子たちは逃げ去り、ペテロは密かに後を追って行き、宮廷の中庭に入りこみました。そこでペテロにとって一大事が起きました。周囲にいた人々が「あなたはあの人の弟子はでは?」と言うのです。ペテロは即座に、強く「知らない」と三度答えました。その時、時を告げる鶏の声が。一瞬にしてイエス様のことばを思い出したペテロは、激しく泣きました。
  • あなたのために祈っています…過越の食事の後、イエス様はペテロに「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(ルカ22章34節)と言われました。このペテロの行動も主がサタンに許された惑わしでした。主はなぜ、このようなことをされるのでしょうか? サタンの惑わしを体験する私たちが、自分の愚かさや弱さを知り、それによって赦し励まして下さる神の愛に気づき、神のもとに帰って来る、そう信頼しておられるからです。イエス様は「祈っているよ」と励まされます。さらには、自分の愚かさや弱さを知ったことに留まるのではなく、「兄弟たちを力づけなさい」と、歩み出すように使命を与え、祝福して下さいます。失望は主によって希望に変えられます。
  • そこなわれた姿…ペテロがイエス様を「知らない」と三度否んでいる時、宮廷の中では大祭司カヤパによって裁判が行われていました。そして「冒涜罪」が言い渡され、その場にいた人々はイエス様の顔につばきをかけたり、殴りつけたりして侮辱しました。そして次の裁判のためにカヤパの宮廷を出たイエス様は中庭にいるペテロと目が合います。イエス様のペテロを見るまなざしは怒りや悲愴ではなく、弱さを憐れむまなざしでした。「あなたのために祈っているよ」。ポンテオピラトによって死刑を宣告されたイエス様は十字架にかかる前に、鞭で打たれます。ローマ式の鞭打ちは、これによって命を落とすほど残酷です。イザヤはイエス様の姿を、こう預言しています。イザヤ52章14節「多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――」。その姿を目の当たりにしたペテロの心中はどうだったでしょうか。
  • 結び…顔や姿がそこなわれるほどに鞭打たれたイエス様。その傷の深さは、私たちへの愛の深さ、祈りの深さ。イエス様の受難と愛を共におぼえましょう。
Posted on 03/24/2019 at 11:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ゲッセマネの苦祷』(イエス・キリストの生涯 その58)(2019.3.24)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。(ルカ福音書22章42-43節)

  • はじめに…先週、春分の日の21日、東京ドームで行なわれた試合の後、イチロー選手が現役引退を発表しました。その記者会見で語られる一言ひとことに、イチロー選手の人生に対するひたむきさや、他者に対するいたわりが染み出て来るように感じた方は多かったのではないでしょうか? イチロー選手の次なる舞台を期待します。
  • いつもの場所…イチロー選手は、オフの時にはいつも神戸の球場で、大リーグでのプレーの準備をしていたそうです。「寒い時期に練習するので、凹むんですよね。やっぱ心折れるんですよ。でもそんなときも、いつも仲間に支えられてやってきた」。イエス様もオリーブ山のふもとの「いつもの場所」(ルカ22章40節)に弟子たちとやって来て、祈りました。このゲツセマネの祈りは、苦しみもだえる祈り、まさしく“苦祷”でした(同44節)。弟子たちと共に支え合い祈り込むはずが、弟子たちは眠り込んでいました。ゆえにイエス様の祈りは弟子たちの全存在を背負っての祈りになりました。
  • ゲツセマネ…まさにそれはゲツセマネ(=油搾り)の祈りでした。当時のイスラエルではオリーブの実を4回に分けて搾りました。それぞれ①メノラー、王、祭司の任職用、②食用、③ランプ、化粧品、薬用、④石けんに用いられました。そして最後の残った搾りかすは、燃料として使い、百パーセント使い切りました。完全燃焼したのです。イエス様はゲツセマネの祈りによって祈り切り、焼き尽くす捧げものとして十字架への道を歩まれ、十字架の死をその身によって成し遂げられたのです。それは人の力では成し遂げられません。御使いの霊的な力づけがあって実現します。この「力づける」という言葉はヘブル語で「ハザク」、これが固有名詞になると“ヒゼキヤ”になります。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(Ⅱ列王記18章5節)と記されている南ユダの王です。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた」(同20章2-3節)とあるように、祈りの人でした。
  • 結び…イエス様は全人類の救いのために、人としてゲツセマネで祈り尽くされました。この瞬間もイエス様は私たちを包み込んで執り成しの祈りをしてくださっています。祈りは死の壁を超えます。
Posted on 03/17/2019 at 15:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『過越の食事』(イエス・キリストの生涯 その57)(2019.3.17)

イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。(ルカ福音書22章15節)

  • はじめに…先日、日帰りで秋田に行ってきました。空気はクリアでひんやりして、雪寄せされた雪が、道端や駐車場の脇にこんもりと積まれていました。その日は、秋田の食材をふんだんに使った郷土料理をいただきました。秋田の食文化にすっかりとりこになるほど美味しい食事でした。また友人と一緒に食事をすることで親しく交わることができました。イエス様も、良くいろいろな人と食事をしたことが記されていますが、今回は特別な食事となりました。イエス様は十字架を目前にして、使徒たちと一緒に最後の過越の食事をされました。
  • 一緒に食事をしたい…15節をみると、イエス様が使徒たちと一緒に過越の食事をすることをどれほど望んでおられたかが分かります。それは、この地上では最後になる食事。しかし十字架の贖いと神の国(千年王国)への扉が開かれる特別で大切な食事だったからです。それは愛(希望)を示しています。聖書にはイエス様が一緒に食事をしようと声をかけられる場面がしばしばあります。たとえば、復活されたイエス様がガリラヤに逃げたペテロやその他の使徒たちに「一緒に食事をしよう」と言われました。この時、イエス様は使徒たちの裏切りに対して赦すことを示されました。またヨハネ黙示録3章20節「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。ここでは主に背を向けている人々に、主の方から和解を示されます。一緒に食事をすることは、愛(希望)、赦し、和解を、主ご自身の方から私たちのところに歩み寄って与えて下さるということです。
  • 裂かれたパン…過越の食事は、、出エジプトの出来事を想い起させるメニューになっています。その中にはイエス様の十字架を予表するものもあります。それはパンです。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えられました。このパンは種なしパンですが、黒く焦げ目がつけられており、全体に穴が明けられています。ユダヤの人々は、これを伝統として無意識に受け継いでいますが、実はこれらはイエス様の十字架を表わしているのです。焦げ目は鞭打たれた傷、穴は釘を打たれたことを表わしているのです。そのパンをイエス様ご自身が裂いて弟子たちに与えられました。ご自分のいのちをすべての人々に分け与えられた、それが十字架です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)
  • 結び…愛(希望)と赦しと和解を与えるためにイエス様は今日も「一緒に食事をしよう」と声をかけておられます。
Posted on 03/10/2019 at 18:28, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『洗足』(イエス・キリストの生涯 その56)(2019.3.10)

過越のまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の來たれるを知り、世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり。(文語訳) (ヨハネによる福音書13章1節)

  • はじめに…昨晩、NHKスペシャル「崖っぷちでもがんばっぺ~おかみと社長の奮闘記~」の番組で 岩手県釜石の浜辺にある旅館「宝来館」の女将の岩崎昭子さんのことが紹介されていました。岩崎さんは津波をかぶり九死に一生を得、震災の1年後に国からの補助金で旅館を再建、今も以前と同じ場所で営業を続けています。
  • 極まで愛し給う方…今日のテキストの箇所はイエス様が十字架に付かれる直前の「告別説教」です。マタイによる福音書5-7章ではイエス様が宣教の始まりに語られた「山上の説教」が記されていますが、イエス様の公生涯の最初と最後に語られた二大説教と言えるでしょう。それをいとすぎ教会のある場所から見える山にたとえるなら「御岳山」と「伊吹山」になるでしょうか。イエス様の生涯は愛より発し、愛に至る生涯といえます。その愛のひとつの見本を十字架の死の直前に、弟子(使徒)たちに示されたのが“洗足”という振る舞いでした。そのことを使徒ヨハネは「極まで之を愛し給へり」(文語訳)と表現しています。私訳をすれば「果てしなく愛し続けられた」となるでしょうか。
  • 洗足は御国での執り成しの型…イエス様は十字架と昇天(死と復活)を知った上で、弟子たちの足を洗う振る舞いをしています。つまり永遠の別れを惜しむ思いから足を洗ったのではなく、その後の天における執り成しの約束のしるしとして、この地において足を洗ったのです(ルカ福音書24章49-51節、マタイ28章20節参照)。
  • 津波てんでんこ…弟子たちは十字架から“てんでんこ”しました。しかしイエス様は、十字架から逃げた弟子たちに「都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)と語られました。「なぜ同じ場所で再開するのですか」と、岩崎さんはよく聞かれるそうです。「ここで受けた震災の傷は、ここの水、ここの土、ここの空気で治すしかないの。」私たちの傷ついた場所にイエス様はおられ、執り成し、いやして下さいます。傷のあるところにイエス様の愛があります。
  • 結び…世の終わりまでともにいて下さる主に栄光
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