Posted on 10/27/2016 at 21:08, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『フィラデルフィヤにある教会(黙示録 その9)』(2016.10.23)

 

わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(ヨハネ黙示録3章8節)

  • はじめに…先週、『君の名は。』というアニメ映画を家内と二人で観てきました。テーマは「時間を超越した出会い」とでも言ったらいいでしょうか。
  • 口噛み酒…その中で、「口噛み酒」というものが出てくるのですが、いわゆる世界最古の酒造法で造られたお酒です。米を口の中で噛みつぶして吐き出し、瓶に貯えて発酵させたことにちなみ、お酒を醸造することを昔は「かむ」と言ったそうです。この「かむ」が変化して「かもす(醸す)」という言葉ができたと言われています。
  • 酒神ディオニソス…今日は、フィラデルフィヤの教会から、みことばを聴きたいと願っていますが、この地域は、ブドウの産地でした。当然、ワインが特産になります。そして宗教と結びつき酒の神であるディオニソス(バッカス)が祭られました。
  • ダビデのかぎ…そんな中にフィラデルフィヤ(=兄弟愛)の教会がありました。規模も小さく、貧しい農民たちが集まっていたようです。この教会をイエス様は賞賛しました。イエス様は“ダビデのかぎ”を持っておられます(イザヤ22章22節参照)。これはダビデ家の宮殿と宝物庫の門のかぎを指しています。霊的に解せば、天国の宮殿と宝物庫の門のかぎです。天国の門を解放し、御国の宝物庫の中にある宝物を自由に下さる、そう語られるのです。
  • 少しばかりの力…フィラデルフィヤの教会は、貧しい農民の小さな集まりでした。目を見張るような働きも、周囲の人々に影響を与えるような力もありませんでした。川の源流の、湧き水のような存在でした。しかし、わずかであっても持っているものを用いて忠実にみことばを守り、みことばを行って、主を証しし続けた(主の名を否まなかった)のです。
  • 試練の時に守り、聖所の柱とする…その小さい者に、「試練の時に守る」「聖所の柱としよう」「わたしの名を書きしるす」と確約してくださっています。
  • 結び…日常の中で、主につながり、祈りと行いで主と隣人を愛する皆さんでああるように主の御名によって祈ります。
Posted on 10/16/2016 at 19:42, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『サルデスにある教会(黙示録 その8)』(2016.10.16)

 

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。(ヨハネ黙示録3章5節)

  • はじめに…先週14日(金)の朝、六本木の外壁工事中のビルの10階から鉄パイプが落下し、通行人の男性(77)を直撃し、亡くなられるという痛ましい事故がありました(ルカ13章4節参照)
  • スコット…さて、今日の日没からユダヤ暦ではスコット(仮庵の祭)が始まります(レビ記23章34節参照)。第7月の15日ですから満月(十五夜)です(どうぞ今晩、夜空を見上げて下さい)。
  • サルデス…今日は、七つの教会(すべて現在のトルコにありました)のひとつサルデスの教会(スミルナから東へ約70キロ)から、みことばを聴きたいと願っています。サルデスの名の意味は「遺残者(残れる者)」です。
  • 賞賛のことばがない…スミルナの教会は叱責のことばはありませんでしたが、サルデスの教会には賞賛のことばがありません。「行ないを知っている」「実は死んでいる」(1節)と主は語られています。行ない(奉仕)がどれほど人の前に立派だったとしても、また、どれほど盛んであったとしても、内実が伴っていなかった、ということでしょう。つまり聖霊が内住しておらず、自分の力、義で働いていたのがサルデスの教会の大多数の人々だったのでしょう。人の目には生き生きとした姿に見えたとしても、主の目には死んでいる者に見えていたのです。
  • いのちは内側から輝く…だから主はご自身を“神の七つの御霊、七つの星”を持つ方として表わされました。完全な御霊、栄光の輝きを持つ方としてです。持っておられる方は、同時にそれを与えられる方です。イエス様が、地上生涯最後の仮庵の祭のとき、おっしゃいました。「わたしを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章38節)
  • 悔い改め…その福音の原点に帰ることが、すでに信仰の恵みに与かっている者の悔い改めです。人の目や、世俗の事柄や、自分の義ではなく、主イエス様を仰ぎ、主の御声に耳を傾けることです。そうするなら、「いのちの書から名を消すようなことはない」という永遠の保証が与えられます。
  • 結び…仮庵の祭のこのとき、皆さんが福音の原点に立ち返り、内側から輝くよう、祝福して祈ります。
Posted on 10/09/2016 at 19:43, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『テアテラにある教会(黙示録 その7)』(2016.10.9)

 

 

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。(ヨハネ黙示録2章18節)

  • はじめに…先週の日没から、ユダヤ歴では5777年(伝統的に天地創造から数えて)の新年「ロッシュ・ハシャナー」を迎えました。「天地創造」から数えるということは、つまり、“歴史には秩序と目的がある”ということを心に刻む時が、新年のテーマだということができます。神が王(主権者)であること、神の民として、人は世界に対して責任(課題あるいは意味)があること、そして、審判(悔い改めとあがない)があることを、覚える時です。
  • ヨム・キプール…新年の10日目は「ヨム・キプール」(贖罪の日)として断食し祈って時を過ごします(イザヤ58章6-14節参照)。
  • テアテラ…今日は、七つの教会(すべて現在のトルコにありました)のひとつテアテラの教会から、みことばを聴きたい願っています。テアテラはペルガモから南東に約65キロのところにあった、商業都市でした。羊毛と染料、真鍮製品が特産品として有名でした。このことからも極めて女性の衣服がフッショナブルであったろうと想像できます。テアテラの名の意味は「女の圧制」です。
  • イゼベル…そのテアテラの教会に、イゼベル(純潔)という女性が幅を利かせていたことが記されています。良い影響ではなく、悪影響を及ばしていました。しかも教会は彼女のなすがままに任せていたと。
  • ルデヤ…神を恐れないイゼヘルに対して、テアテラ出身で神を敬うルデヤという女性がいたことを聖書は記しています(使徒の働き16章14節)。紫布の商人だったことから、経済的にも裕福だったことが伺われます。
  • 思いと心を探られる主…主は、燃える目と輝くしんちゅうの足で私たちの内側に近づいて来られ、内面を探られる方です。そのとき、頑なに厚顔無恥を貫くのか、悔い改めて心を開くのか、私たちにその決断がゆだねられています。もちろん主は、後者を望んでおられれます。
  • 結び…主の御前に立つとき、ありのままの自分を差出し、明けの明星に照らされる皆さんであるよう、祝福して祈ります。
Posted on 10/02/2016 at 19:21, by matsumoto

第5回「霊性牧会クリニック」開催のお知らせ

Posted on 10/02/2016 at 19:11, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『スミルナにある教会』(黙示録 その6)』(2016.10.2)

 

 

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネ黙示録2章10節)

 

  • はじめに…今日の日没からユダヤ歴では「新年」を迎えます。ユダヤの伝統に則すれば天地創造から5777年となります。次のヨベルの年(安息と解放の年)に向けて、新たな活動期に入ったといえます。その歩みは平坦なものではないと思います。
  • 新年の希望…しかしその歩みは、確かな希望、新しいエルサレム(神の幕屋)で、イエス様と永遠に住まう希望に向けての歩みです。ユダヤでは、りんごにハチミツをつけて、「シャナー・トヴァー・ウメトゥカー」(良き甘き年でありますように)と祝福します。また、新年の2日間は、「神の王冠」と言われるべき日で、王冠をイメージした丸型のパンを使って聖別の祈り(キドゥーシュ)が行われます。
  • スミルナ…今日は、七つの教会(すべて現在のトルコにありました)のひとつ、スミルナの教会から、みことばを聴きたい願っています。スミルナは現在のイズミールで、人口およそ4百万のトルコ第3の都市として繁栄しています。黙示録の記された当時も主要都市として栄えていましたが、教会は迫害の真っ只中にありました。ゆえに極めて貧しい境遇に置かれていましたが、イエス様はそのことをすべて知っていて下さいました(マタイ5章3、10-11節参照)
  • 没薬…スミルナは「没薬」という意味です。没薬は香料、鎮静剤、防腐剤として用いられました。さらに重要なことは、聖なる注ぎの油として幕屋の器具に塗られ(出エジプト30章23-30節)、幼子イエス様に捧げられ(マタイ2章11節)、葬りに用いられた(ヨハネ19章39-40節)ということです。つまり、主に近づき、礼拝するために用いられたのです。
  • いのちの冠…“いばらの冠”を被られたイエス様(マルコ15章16-23節)が、忠実な者に“いのちの冠”を与えようと、約束して下さっています。
  • 結び…いのちの冠を与えて下さり、聖なる天の都に招いて下さる主イエス様のみことばに忠実に応える皆さんお一人ひとりであるよう、祝福して祈ります。
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