Posted on 09/18/2022 at 15:33, by matsumoto
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト19章6節) /しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロの手紙第一2章9節)
◆はじめに…先週、映画『百花』を観ました。シングルマザーで音楽教室を営む母・百合子(原田美枝子)が、ある日突然目の前からいなくなるという体験をした息子・泉(菅田将暉)。その心の溝を埋められないでいた二人。母の認知症が進行していく中で、忘れていた母との思い出の断片を想い起こし、母の愛に対する愛おしい感情が心の溝に流れ込んで来る、そんな映画でした。創造の主、贖いの主イエス様の愛に対する私たちの応答の過程に似ているのかも知れません。
◆神にとっての私たち…本日のテキストは、神様にとって、私たちはどんな存在なのかという人物紹介と、神様の愛に対する私たちの応答についての記事です。神様の目から見て、私たちは「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」(新改訳)だと、ペテロはその手紙に認(したた)めています。別の聖書の訳で見てみると「身内として選ばれた者 택하신 족속(族属、身内)」「왕같은 제사장들(王のような祭司長)」「royal priesthood(王室の祭司)」「とっておきの民(大切な、所重(소중한))」となります。「わたしの宝」とも(出エジプト記19章5節)。神様は私たちを世界の基の置かれる前から選んだのです(エペソ1章4節)。神様にとって私たちは最大の関心事、最愛の者、“いち押し”の者なのです。暗やみの世の中にあっても、神様の「驚くべき光」の懐(ふところ)に私たちを招き入れて下さっているのです。それゆえ、私たちは素晴らしく、純粋で、色褪せない、「美しく輝く月明かり」のように闇を照らして生きられるのです。
◆私たちの応答…そのように神様から守られ、愛されている私たちは、自分の意思や努力や修養によってキリスト者となったのではありません。一方的な神様の恵みと憐れみ、愛によってキリスト者になった私たちは、神様に対しては、絶えずその前に(仲介なく直接)立って、賛美と感謝をもって仕える祭司です。人と世に対しては、自分自身を含めこれを支配(下から支え配慮)する王です。私たちの生活の目的は、快楽や成功のためでも安身立命でもなく、身をもってイエス様から受けている愛に対する応答をすることです。
◆結び…神を愛し、隣人を愛する一週間でありますよう、祈ります。
Posted on 09/11/2022 at 19:17, by matsumoto
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。(出エジプト16章18節) /「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。(コリント人への手紙第二8章15節)
◆はじめに…9月10日は“中秋の名月”ということで、今日の真夜中に空を見上げてみましたが、あいにく雲がかかっていて満月を見ることはできませんでした。エルサレムはどうかと思い、ライブカメラを観てみましたが、残念ながら、こちらも曇り空のため満月は見ることはできませんでした。しかし雲の向こう側には確かに真ん丸のオレンジ色に輝くお月様が浮かんでいることは確かです。お隣の韓国では“秋夕(チュソク、추석)”で賑わっているのでしょう。中秋の名月の次の満月が来ると、いよいよ“仮庵の祭り”です。
◆マナ…本日のテキストは、出エジプト記は「マナ」について、そして②コリント人への手紙は旧約を引用して「献金」の取り扱いについてパウロが意見を述べる箇所です。私(たち)は、多く集める=欲張り、少なく(しか)集められなかった=貧困というように考えがちです。しかし、マナも主の賜物(贈り物)であり、そのマナを集めるための健康、能力、勤勉さも主からの賜物(タラント)です。私たちの周囲は、自分自身も含めて、すべて主の賜物で満ちているのです。そして自然と分かち合いの気持ちが湧き出るように創造されているのです。そして賜物を受ければ喜びが溢れるように創造されているのです。その現実を味わいなさいというのが、主が私たちに託された喜ばしい課題なのです。それは善悪の知識の木に躓いた人間に対する“一本の木”(柳=ぎょうりゅう)の出来事です。
◆いのちのパン…さらにその出来事は主イエス様へと引き継がれました(ヨハネ6章35節)。天からのまことのパンであるイエス様は、モーセを通して与えられたパン(マナ)を遥かに超える、決して飢えることのない、“いのちのパン”です。もちろん、お月見団子やソンピョン(松餅=송편)も美味しいでしょうけれども比較になりません。主イエス様は、いのちのパンとして、私たち罪人を死から解放するために一本の木、すなわち十字架に釘付けになられたのです。
◆結び…そしてその朽ちないいのちを与えるのは御霊です(ヨハネ6章63節)。ペンテコステの出来事のように、御霊が分かち合われるところに、まことの神の愛の経済(交流)があります。神の愛の経済には、好景気も不景気もなく、絶えず満ち足りた恵み、まことの秋夕(チュソク、추석)があります。
Posted on 09/04/2022 at 16:32, by matsumoto
「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(出エジプト13章2節) /― それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。―(ルカによる福音書2章23節)
◆はじめに…先週の木曜日に阿部寛主演の映画『異動辞令は音楽隊』を観てきました。ザ・昭和を思わせるような熱血鬼刑事成瀬(=阿部寛)が、部下の内部告発で刑事課から広報課の音楽隊に栄転⁉させられ、はじめは不本意な境遇でしかなかった音楽隊の隊員たちとの関わりの中で人間的に成熟していく、そんなストーリー。その中で印象的なセリフ“ルールを超える緊急事態というものがある”
◆初子の聖別…出エジプトの際、主は10の災いをエジプト全土に下しました。その第十番目の災いが“すべての初子の死”でした。その際、主は、かもいと門柱にほふった羊の血を塗ることで、エジプト人とイスラエル人を区別する目印としました。それによってイスラエル人の初子は死を免れました。つまりイスラエル人の初子は、主によっていのちを救われたのです。ですから「最初に生まれた初子はわたしのもの」(出エジプト記13章2節)と主は言われました。だから聖別してささげよ、そう主はイスラエルの民に告げられました。
◆幼子イエス様の聖別…律法に従って聖別する(ささげる)ため、ヨセフとマリヤは初子のイエス様をエルサレム神殿に連れて来ました(ルカ2章22節)。それ以後もイエス様を連れて過越の祭りには毎年エルサレムに出かけ (同41節)、イエス様が十二歳になられた年も都に上り、祭りの期間を過ごされました(同43節)。
◆イエス様の最初のみことば…ユダヤ人共同体では十三歳で成人になるため、その前年までに必要な教育をします。十二歳は教育の仕上げ段階と言えます。ルカはここでイエス様の語ったみことばを、はじめて記しました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいる(わたしの父の仕事をする)ことを、ご存じなかったのですか」(同49節)。ヨセフとマリヤは、そのイエス様のことばの意味が分からなかったと(同50節)。異質な者を排除したり、抑圧したりせず、あるがままを受け入れ、分け隔てなく永遠のいのちを与える御業、それが父の仕事であり、イエス様の仕事です。その働きは律法(ルール)に縛られることはありません。律法(ルール)を超える愛の緊急事態でからです。
◆結び…イエス様は、みことばを語られます。その意味が分からなくても、心に留め、イエス様の愛に生かされていることを感謝する霊性が開かれますように。
Posted on 08/28/2022 at 17:26, by matsumoto
これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。(出エジプト12章46節) / このことが起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のみことばが成就するためであった。(ヨハネによる福音書19章36節)
◆はじめに…9月25日(木)の日没(26日(金)の新月)から、イスラエルではユダヤ暦で新年(5783年)を迎えます。次の満月にはユダヤ三大祭りの「仮庵の祭り(スコット)」を迎えます。聖書の記述(主にルカ福音書)を総合すると、イエス様がお生まれになったのは、この仮庵の祭りの時期だったことが分かります。ですから、このユダヤ暦の新年から仮庵の祭りのこの時期に、イエス様がこの世に遣わされたことに思いを馳せることは意義深いことです。
◆過越のいけにえ…今日のテキストは、過越のいけにえ(小羊)に関するみことばです。出エジプト記12章46節に、過越のいけにえ(小羊)は家の中で食べ、家の外に持ち出してはいけないことと、いけにえの骨を折ってはいけないと記されてあります。共にひとつの食卓(=いのち)に与ることの意味を、後に使徒パウロが①コリント人への手紙で明らかにしています(①コリント10章17節)。そして使徒ヨハネは主イエス様の十字架の出来事(すねを折られなかったこと)を目の当たりにして、イエス様がまさに過越の小羊、つまり贖いの小羊であったことを確証しています(ヨハネ19章33節)。詩篇34篇19-22節はこれらの真理を言い抜いています。
◆すねを折る…イエス様が十字架で「完了した」と叫ばれ、絶命してすぐ、ユダヤ人たちはイエス様のすねを折って、一刻も早く十字架から取り下ろすことをピラトに願い出ました。日没が来ると安息日になり、聖地が汚れるとの考えからでした(申命記21章22-23節参照)。ローマ的な習慣では十字架に掛けた死体は、鳥が啄むに任せていたため、ユダヤ人には到底受け入れられないことだったのです。
◆すねを折らなかった…しかしローマ兵たちは、イエス様のすねの骨を折ることはありませんでした。旧約の預言などまったく知る由もないローマ兵によって出エジプト12章46節のみことばの成就を見ることになったのです。預言の成就のために用いられたローマ兵は、イエス様が絶命していることを確かめるため脇腹を槍で突き刺したのでした。すると血(あがない)と水(聖霊)がイエス様から流れ出たのです。ここにイエス様が真の救い主であることがはっきりと現れています(イザヤ書44章3-4節、22節参照)。
◆結び…イエス様はいつも私たちと共にいてくださり、贖い出し、御霊を注ぎ、復活のいのちに生かして下さっています(ガラテヤ書3章13-14節参照)。
Posted on 08/21/2022 at 17:46, by matsumoto
また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。(出エジプト3章6節) / 「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイによる福音書22章32節)
◆はじめに…今から3年前に発生したオーストラリアの森林火災。今でも炎の森林の中、逃げ場を失ったコアラの痛々しい光景を鮮明に思い出します。シドニー大学の試算では、哺乳類、鳥類、爬虫類など10億以上の生命が失われたと推定され、生き残っている動物たちも絶滅が危惧されています。森林火災は昔から(神の摂理の中で)世界各地で発生していますが、ここ最近の大規模火災化は人間の節度を超えた経済活動による気候変動の影響が大きいように思います。
◆3千年前の炎…今日のテキストは、エジプトで成長したモーセがある事件からミデヤンの地(アカバ湾の東)に逃れ、ミデヤンの祭司イテロの羊を飼っていて、ホレブ山(シナイ山)にやって来た時のことです。モーセ80歳の頃です(使徒の働き7章30節参照)。そこでモーセは、焼け尽きない柴を発見しました。3年前の森林火災は木々も動物も焼き尽くしてしまいましたが、3千年前、モーセが見た炎は、焼き尽くすことなく、燃え続けていました。その炎の中から主がモーセに呼びかけられました。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 (出エジプト3章6節)と。また、こう語られました。「わたしはある」(同14節)と。モーセはリアルな神と出会ったのです。そして御声を聞いたのです。
◆イエス様の引用と展開…イエス様は、この出エジプト記3章6節を、復活を信じていないサドカイ人たちの「復活」についての論争の場面で引用しています。そして次のように展開しています。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(マタイ22章32節)と。聖書は文字づらではなく、今、語られる活ける神のみことばであって、復活について語られているのだと。そして神の力は、死人の復活の際には肉の身体を天使のような身体(朽ちない身体、御霊に属する身体)に変えるのだと。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神がそれぞれに関係を保って、今なお、生かしておられるのだ、ゆえに神は、生きている者の神なのだ、そうイエス様は、みことばを説き明かしておられます。
◆結び…この瞬間も燃え尽きない柴として私たち一人ひとりの内側を照らし、それぞれの人生の道行きを照らし御国に導いておられる主の臨在に感謝します。