Posted on 01/16/2017 at 19:05, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『与えられた香(黙示録 その21)』(2017.1.15)

 

また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。(ヨハネ黙示録8章3節)

 

  • はじめに…昨年のちょうどこの日、オリーブ山からエルサレムを展望しました。抜けるような青空でした。それから山を歩いて下り、ゲッセマネの園へ。
  • ゲッセマネの祈り…イエス様は、十字架に架かられる前夜、このゲッセマネ(油絞り)で、まさに搾油機でオリーブ油を最後の一滴まで搾り出すような祈りを、主に捧げられました。そこにイエス様の祈りを記念する万国民教会が建てられています。
  • 天使の祈り…今日のテキストは、イエス様がこの地の最も低いところでうつ伏して祈られたのとは反対に、天では御使いが祈っています。「金の香炉を持って祭壇のところに立った」とあります。祭壇は香壇のことです。地において香壇の前に立つことができたのは、年に一度、「贖罪の日」に大祭司がイスラエルの民を代表して立ちました。または、くじに当たった祭司が(一生に一度)、朝夕の香をたく祈りの務めに立ちました。その聖い場に立った御使いに“たくさんの香”、すなわち“祈り”が与えられたのです。
  • すべてに勝る愛…ソロモンの若い時の著作といわれている「雅歌」に「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は(…)すべての香料にもまさっている」(雅歌4章10節)、「あなたの産み出すものは(…)香料の最上のものすべて」(同14節)と記されています。つまり“香”は“祈り”であり、祈りは“愛”だということです。そして、その“愛”が「与えられた」のです。裏を返せば、私たちには(御使いにも)、生まれながらの愛はなく、愛は、ただただ主から「与えられる」ものだということです。では、その愛は一体、どんな愛で、どこで与えられるのかと言えば、イエス様のゲッセマネの愛(祈り)であり、最も低いところ、暗いところ、この地のどん底、この地の片隅で与えられるのです。「生きよ」「生かす」と、贖いの主は、私たちのために今日も祈って下さっています。
  • 結び…私たちに愛と祈りを与えて下さり、生かして下さる主に栄光がありますように。

 

Posted on 01/08/2017 at 19:42, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『涙を拭ってくださる主(黙示録 その19)』(2017.1.8)

 

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(ヨハネ黙示録7章17節)

 

  • はじめに…先週一週間は、元旦の二部礼拝に続いて、祈りのための来客、お見舞い、そして仕事始めと、内容のぎっしり詰まった“福袋”のような一週間でした。私たちの小さな脳みそと身体は、すぐに飽和状態になり、処理不能になってしまいます。人間には限界があります。
  • いのちと力の源…しかし、そんなとき、御座におられる主に心静かに祈ると、不思議と爽快な風が吹きはじめ、清い水が流れはじめます。新たないのちと力が与えられます。このいのちと力の源となる祈り、礼拝が、すなわち、天における霊的礼拝です。この地上にありながら天上の礼拝を捧げているのです。なぜなら、主イエス様が十字架によって、この地と天の霊的通路を開いて下さっているからです。
  • 涙を拭って下さる主…その小羊なる主は、礼拝を捧げる私たち一人ひとりの涙を拭って下さる方だと、御言葉は語っています。この地にあって私たちは、どれほど多くの涙を流して来たことでしょう。自分自身の不甲斐なさのためにひとり悔し涙を流し、人間関係のもどかしさゆえの悲しみや憤りの涙を流したことでしょう。これからも涙することでしょう。しかし、そのすべてをご存知の主が、その都度、涙を拭い去って下さるのです。
  • 涙される主…私たちの涙を拭って下さる主ご自身、どれだけ私たちのために涙されたことでしょうか。今、御許から離れて闇をさまよっている魂を思って涙されておられるでしょう。あるいは病気で苦しんでいる魂、故なき不条理に遭っている魂のために、ラザロの死を前にして涙されたのと同じように、涙されておられるのではないでしょうか(ヨハネ1135節)。しかし、その涙の先にあるものは…。そうです。復活です。
  • 結び…私たちの涙を拭って下さる主、また自ら私たちのために涙される主、そして自らを十字架に委ね、贖い、復活のいのちを与えて下さった主に栄光がありますように。

 

Posted on 01/02/2017 at 08:19, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『救いは小羊にある(黙示録 その18)』(2017.1.1)

 

彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」                      (ヨハネ黙示録7章10節)

  • はじめに…2016年の10大ニュースイスラエル巡礼の旅(1月)M家礼拝(2-8月)父に聖書を手渡す(3月・その後、父の前立腺がん大幅に改善)霊性牧会クリニック開催(5月、12月)開催糧のための仕事の一本化(7月)自転車通勤開始(7月)Hさん来会(7月)鎌倉・鶴岡八幡宮へ執り成しの祈り(8月)伯母の米寿の祝福の祈り(11月)いとすぎ教会初のバプテスマ(12月)
  • 告白を生きる…2016年は「ヨベルの年」ということで、“野の花”として置かれた場で主に祈り、主の愛の出来事を見させて頂こうという姿勢で過ごしました。その結果、素晴らしい主の愛の御業をたくさん見させて頂きました。今年2017年は『救いは御座のイエスにある―告白を生きる』というテーマを示されています。花の種となって、聖霊の風に乗って、出会いの与えられる場所で“告白を生きる”そんな年に、と願っています。日々「救いは主イエス様にある」ことを、身を持って証し(告白)していく歩みにしていきたいと願っています。
  • 白衣を着た大群衆…今日のテキストの「彼ら」というのは、白い衣を着た大群衆です。“だれにも数えきれないほど”と形容されています。しかし、それほど大人数であっても白衣はすべての人が着ることが出来、しかも“小羊の血で洗って白くした”(黙示録7章14節)とあります。つまりイエス様のあがないの血によって洗い、白くした衣服です。あがないの力なるイエス様は、不足することなく、無限の愛と義で、愛する者を包んでくださる方です。
  • 天での礼拝…それゆえ、大群衆は賛美と祈りと告白で、主に礼拝を捧げるのです。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」(黙示録7章10節)
  • 小羊の前で…しかも「御座と小羊との前に立って」(同9節)の礼拝です。それはあたかも大祭司が垂れ幕を通って、契約の箱の間近で、祈りを捧げる光景と重なります。主は愛する者の上に幕屋を張られ、その内側に臨在し、親しく霊の交わりをしてくださる方です。創造の主は、大きな愛のゆえに、世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選んでくださっているのです(エペソ1章参照)。主は、この地にある私たちと内側で出会ってくださるのです。
  • 結び…2017年が皆さんにとって、主の祝福に満ちた年となるよう、祈ります。
Posted on 12/26/2016 at 22:19, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『救いは小羊にある(黙示録 その18)』(2016.12.25)

 

だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。(ヨハネ黙示録7章15節)

  • はじめに…今日は5本目のキャンドルに火が灯りました。これは「キリストのキャンドル」です。言わずもがな、キリストが闇を照らす「世の光」であることを象徴するキャンドルです(ヨハネ1章5、9節、8章12節参照)。
  • 12月25日…今年の冬至は12月21日でした。昼が最も短い日です。しかし、この日から一日一日、日が長くなっていきます。多くのキリスト教会で、12月25日をクリスマス(降誕日)として、イエス様のご降誕の記念として覚えています。時同じくして、ユダヤ教徒は、「ハヌカーの祭り」として、この時を覚えています。これは、ギリシャ帝国の支配下でギリシャの神々の信仰を強要されギリシャ神殿風に変えられていたエルサレム神殿を奪還し、メノラーに再び火が灯されたことを記念する祭りです。紀元前165年のことです。
  • 飼葉おけ…イエス様は、飼葉おけの中でお生まれになりました。この「飼葉おけ」という言葉は、ヘブル語に直すと「エーヴース」(小屋、仮小屋)の意味になります。つまり「仮庵」です。そうすると、イエス様の誕生されたのは…。
  • ユダヤ三大祭りとの関連…イエス様の十字架は「過越の祭」の啓示です。また、死から復活したイエス様は「初穂の祭」の啓示です。とするなら、イエス様の誕生も、ユダヤの祭りの啓示である可能性がきわめて高いと言えます。「仮庵の祭」です。そのことを裏付けるみことばがいくつかあります。ルカ2章8節、アモス7章14-15節、ルカ1章5-31節、ヨハネ1章14節、そして今日のテキストを含む黙示録7章9、10、15節です。
  • 来て飲みなさい…イエス様が地上生涯最後の仮庵の祭りで語られました。「だれでも渇いているなら、わたしのものに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37-38節)「わたしは世の光です」(同12節)「わたしはだれをもさばきません」(同15節)。そして盲人の目を開かれました。荒野の40年を約束の地を目指して仮庵生活をするヘブルの民を導かれたように、イエス様は、私たちを天の幕屋(御国)へと導いて下さっています。
  • 結び…世の光として道を照らし、天幕を張り、ともに歩んでくださる主に栄光がありますように。
Posted on 12/12/2016 at 19:33, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『祭壇の下(黙示録 その16)』(2016.12.11)

 

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。(ヨハネ黙示録6章9節)

 

  • はじめに…今日は3本目のキャンドルに火が灯りました。これは「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。バプテスマのヨハネは、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しました。荒野に住み、いなごと野蜜を食べ、粗末な衣服に身を包んで、“声”として働いていました。
  • 衣服…着るもので、その人の“人となり”がある程度分かります。しかしその人の本質は覆い隠されています。パリサイ人、サドカイ人も立派な衣服に身を包んでいました。その彼らに対してヨハネは「まむしのすえたち」(マタイ3章7節)と内面を指摘しました。その一方で、作業着のままやって来たかのようなイエス様に接し、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに…」(同14節)と語りました。この地にあって、粗末な衣服に身を包む他ないものに、父なる神は、天において輝く義なる“白い衣”(黙示録6章11節)を着せて下さいます。
  • 神のことばとあかし…またバプテスマのヨハネに神のことばがありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(同17節)。そして近づいて来られるイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)とあかししました。そのヨハネの結末は、殉教の死でした(マタイ14章10節)。バプテスマのヨハネが、神のことばとあかしの故に、血を流したさきがけでした。
  • ご計画の全貌…このバプテスマのヨハネの弟子だった若かれし使徒ヨハネは、恩師のあかしを聞いて、イエス様について行きました(ヨハネ1章37節)。いつもイエス様の傍らにいて、そのみことばを聞き、歩みを共にしました。そのヨハネの晩年に、主のご計画の全貌が啓示されているのです。
  • 祭壇…そして今、祭壇の下にいるたましいをヨハネは見ています。そこでたましいは「血の復讐を」と叫んでいます。血に対して血で復讐するのが父なる神でしょうか? そうです。人の流した血に対して、主イエス様の血で「シャローム」、すなわち平和で報復するのです。
  • 結び…平和の主よ。来てください
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